ヤリ部屋
鹿

 扉を開けると、細長い廊下があって、その奥に部屋がある。冷房が効いていて涼しい。

 靴を脱いであがると、部屋の手前には洗濯機を置くスペースがあり、風呂場がある。でも、そこに洗濯機はなくて、小さなプロジェクターが足下の壁に映像を投影していて、胸元に刺繍が入った白いシャツが置いてある。薄暗い風呂場を覗くと、サーフボードのようなものが立てかけられている。

 部屋に入ると、 IH 調理器のついたキッチンが併設されていて、レンジフードにはイラストが描かれたさまざまな大きさのマグネットが貼られている。このマグネットはレンジフードだけでなく、玄関の扉やクローゼットの扉など、部屋のなかで磁力を持っているさまざまな場所に、いくつも貼られている。壁には、絵画と呼んでいいのかわからないけど、いわゆるサイバーパンクと呼ばれるような、独特な質感をもったコンピューターで描かれた絵が掲げられている。また、おおげさな額縁に入った、絵画のようにみえる絵もある。

 机の上には、スナック菓子やインスタント焼きそばを食べ終えたあとのゴミや、飲みかけのペットボトルなどが散乱している。その食べかすの跡から、ここにはたとえば MacBook などが置かれていて、その上で食事がされていたのかなと想像させられる。

 部屋にはディスプレイがふたつある。ひとつは、大きなテレビに macOS のデスクトップが映しだされている。ぼんやりみていると、静止画だと思っていたデスクトップの背景が動きだして、動画だったのかと驚く。動画では、おそらくデスクトップの背景に写っている山脈が撮影された、 Sierra という OS のバージョンとおなじ名前のアメリカの場所についての説明がされているようだった。もうひとつのディスプレイは小さなブラウン管の受像器で、それはジグソーパズルのピースを掛け合わせたような箱に収められていて、映像のなかでは、猫と、猫にまつわる話が、感情の起伏がほとんどない声で、延々と話しつづけられている。

 部屋の隅には、ビンゴカードが積まれている。ただし、よくみかけるビンゴカードとは異なり、数字ではなく言葉が羅列してある。また、ビンゴカードなのにどれもおなじ内容が印刷されている。このカードを使ってビンゴゲームを行っても、おそらく全員同時にビンゴしてしまうだろう。ビンゴカードの隣には、グラスのなかの溶けたアイスに目玉がついたキャラクターのようななにかの絵柄のステッカーと、ゼムクリップも置いてある。これらをどのように使うのかという説明は、どこにもない。また、 iPhone が充電ケーブルに繋がったまま置かれていて、たまに着信音が鳴っているが、画面にはなにも表示されていない。

 窓にはシールが貼られている。窓の下には、ねずみの穴と、ねずみ取りのシール。窓の上には、逆さまになったねずみの穴と、落ちていくねずみ、風船で空を飛ぶチーズ、猫と思われる手、リボンのシール。窓を開けると、脚立が立っている。これらは、さきほどみていた小さなブラウン管の受像器で再生されていた映像と、関連があるのかもしれないし、ないのかもしれない。

 窓の外には、すこし遠くにスカイツリーがみえる。

 さて、 Surfin' が開催された会場の部屋は、わたしが住む部屋の間取りに似ている。

 だから、この部屋に足を踏み入れたとき、いちども来たことがないのに、はじめて来たような気がしなかった。部屋だけではない。部屋の扉をあけたとき、エレベーターに乗ったとき、マンションのオートロックを解除したとき、ふだん乗らない電車に乗って、いちども降りたことがない駅で降りたときから、なんだかもう、ずっとこの街に住んでいるのではないかと思えるくらい、わたしの生活のなかでみる風景と似ていると感じていた。

 というか、東京とかそのあたりでひとりで暮らしている人たちの部屋とか街なんか、だいたいおなじなのかもしれない。

 共有スペースの廊下にはずらっとおなじような扉が並んでいて、そのなかでそれぞれがひとりずつ暮らしている、それはここがただの集合住宅の一戸だからで、集合住宅は展覧会が開催される場所ではなく生活をするためにある場所で、この部屋を訪れるわたしもまた、おなじように集合住宅の一戸に住むひとりだ。会場の隣に住んでいる人は、この部屋で展覧会が開催されていることを知っているのだろうか。わたしは、わたしの部屋の隣に住む人の顔を知らない。わたしが住む部屋の隣で、知らないあいだに展覧会は開催されていないだろうか。もし開催されていたら、展覧会が開催されている部屋とわたしが住む部屋は、なにがちがうのだろう。部屋だけではない。この部屋で展示されているもの、たとえば食べかすが散乱した机と、わたしの部屋にある片づけていない汚い机は、いったいなにがちがうのだろう。

 わたしは 1989 年に生まれて、会社員で、毎朝 7 時に起きて出勤して、生活を 1 日の単位で回して、それが 1 週間の営業日のサイクルになって、四半期の決算に間に合わせようとする。そんな生活がある部屋の隣で、誰が住んでいようと、展覧会をやっていようと、それがたとえヤリ部屋だとしても、わたしにはまったく関係ないということになっている。おなじ国で、おなじ建物にいながら、ひとつ壁を隔てて、まったく関係なくなってしまう。でも、それぞれの部屋は、いったいなにがちがうのだろう。

 展示されているそれぞれの作品は、いったいなにがちがうのだろう。この部屋にも、じつはみえない壁で区切られた、いくつもの部屋があるのかもしれない。干渉しないちょうどいい距離をあけて、関係をもたない関係を保っているのかもしれない。その関係は作品どうしでもあるし、このマンションのほかの部屋との関係でもあるし、社会とか、もっと大きなスコープをもった部屋との関係でもあるのかもしれない。わたしがこの部屋に入ったときに感じた既視感の正体は、わたしと社会とかそういうものとの関係の薄さだったのかもしれない。

 隣の部屋で展覧会をやっているという事件は、わたしのアパートでは起こっていないだけで、このマンションでは起こっている。そんな奇跡みたいな事件が起こる可能性が 1 億万分の 1 だとしても、この部屋では起こっていたという事実が、わたしの隣の部屋のこと、そしてわたしの部屋の隣の隣に位置している、結局はわたしの部屋のことを考えさせられる。この部屋は、蛇口から水も流れなければ(会場の決まりで蛇口から水を出すことは禁止されている)、ベッドもないし、誰かが暮らしている気配がしない。床には会社みたいなグレーのカーペットが敷かれていて、生活を思い起こさせるような演出もされていない。それでも、そんな誰のものでもない誰かの部屋だからこそ、わたしの部屋と、わたしと、繋がっているように思える。わたしの部屋とわたしの隣の部屋が、なにもちがうことがないように思える。わたしと、このヤリ部屋で遊んでいた 1990 年前後にうまれた彼らが、なにもちがうことがないように思える。

鹿

2012- GMOペパボ株式会社 デザイナー
2012 東京造形大学造形学部デザイン学科映画専攻領域卒業
1989 生まれる