カラオケ
大岩雄典・永田康祐・山形一生・山本悠

はじめに場所があった

山本 サーフィンをする人が嫌いな石ってなーんだ?

永田 なぞなぞだ。隕石。

大岩 テレビ石。

山形 海辺の岩。尖ってるやつ。岩礁。

山本 正解は30分後!

永田 ラーメンズのネタみたいだ。[※01]

大岩 ラーメンズは構成意識高いですよね。でも、ラーメンズを構成意識高いよねっていうのはちょっと悔しい。

永田 ラーメンズはきっと構成意識高いって言われたい人たちよね。

山本 いきなりラーメンズをディスる感じになっている。

大岩 ラーメンズ自体はディスってない。

永田 パペット使ったネタ、好きだな。『プーチンとマーチン[※02]』ってやつ。

大岩 ラーメンズ作品はいまYoutubeで全部見れます[※03]よ。見ます?

永田 何も始まらないまま終わってしまいそうだからやめよう。

山本 僕もう仕事終わったよ。なぞなぞを出す。

永田 ポテト買ってきてくれたしね。

大岩 途中でヒントも出していきましょう。

永田 とりあえず、まず僕のほうから企画の経緯についてまず軽く説明して、そこから掘り下げていく感じにしようかな。

大岩 はりきっていきましょう。

永田 もとはといえば僕が引っ越しを失敗したのが始まりで、

山形 引っ越しの失敗?

山本 退去伝えるのが遅かったんだよね。

永田 そう。退去伝えるのが遅くて。

大岩 6月末まで退去できなくなったと。

永田 それでも引っ越したいから引っ越したんだけど、そのあいだ使っていない部屋に家賃を払うことになるので、すこしもったいない。せっかくなのでそこをつかって展示をしようかとなかば冗談で山形くんに相談したら、やろうよということになって。すごいざっくりとした企画をたてて、大岩くんと山本悠に声をかけたというのがはじまりなんだけど。

山形 そうだね。

永田 だから、最初に場所があって、それから企画を練ったという順番。

大岩 「はじめに場所があった。」

永田 そして「企画あれ」といった。

山形 見出し決まったね。

永田 聖書形式でね。

大岩 ナンバリングされるから引用がめっちゃ楽になる。

永田 引用入れよう「マタイによる福音書何章何節」みたいに。

「ディスプレイ派」をうけて

永田 企画を考えるにあたって問題系としてあったのが、谷口さん[※04]の「ディスプレイ派[※05]」の話。これは、彼の個展[※06]のトークで出たタームで、そのあとちょっとした議論をよび、Twitterでプチ炎上みたいになったわけだけど、最終的には本筋とあまり関係ない大喜利[※07]になって話が終わってしまった。

山本 そのようだね。

永田 「ディスプレイ派」という命名が適切かどうかということはさておき、日本の90年前後生まれの作家のうち何人かがディスプレイを作品の基底材として用いながら、同時に他のメディアと混用して制作をしているという状況が——かなり限定的とはいえ——あって、それになんらか命名をしようとした彼の試みに対してはいい意味で批判的に考えたい。

山形 それはね、永田くん、人間にかかわりのある事柄のなかでも、一番重要で、一番善いものなのだよ。

永田 それで少し考えると、ディスプレイに他のもの組み合わせて作用させようと発想する、そこにある欲望とはいかなるものなのか、という素朴な疑問がまずでてくる。また一方でディスプレイを割ったり破壊するような、ディスプレイ自体に介入するアプローチがが排斥されているみたいな指摘もあって、なぜそれらはあまり深く言及されなかったんだろうか、という疑問も同様にある。それですこし思ったのは、こうした試みの多くは〈コンピュータが生活空間にふつうに存在している状況〉に対するリアリティによって駆動されている側面が大きくて、ディスプレイの仕組みをハックしたりとかシステムを解体していこうという方向とは別種のものなのではないかということ。ディスプレイスペシフィックにその特徴を純化していくのではなくて、むしろディスプレイを相対化していくようなアプローチというか。ディスプレイというモチーフが重要なわけではない。

大岩 そうだろう。それは確かに、そう考えなければなるまいね。

永田 日常的な状況——部屋にディスプレイがあって、その周りにものがあって、それらの関係の中で生活しているという——のリアリティに基づいて、ディスプレイをある種デフォルト的にそのまま使っているのかもしれない。それで、まあこれはステレオタイプではあるけれど、そういったリアリティの生まれる場としての私室、より典型的なものとしては6畳一間を考えてみてもいいのかなと。展示場所は9畳だったけどね。

ブラウン管テレビから液晶ディスプレイへ

大岩 物質的な構造としては、ブラウン管と液晶ディスプレイは大きく違うじゃないですか。条理に並んでるってのはそうだとしても。だけど、単純に生活空間に画面があるっていう文脈ならば、液晶テレビの出現以前のそれこそ「イ」って表示された瞬間[※08]から現代までを全部つなげることができる。最近絵を掛けるように動画を掛けるデバイス[※09]がGizmodoで紹介されてたりしたけど、生活の中に表象するものがある、かつ動画が映し出されているという状況はそれ以前に普通にテレビとしてあるわけで。それは映画館でスクリーンを見るのとは違う常につけっぱなしの経験で、ソファの上に常に絵画がかかっているような形で、生活身体との関わり方をしている。つまりその6畳一間のワンルームはサザエさんの居間みたいなもの。

永田 お茶の間のテレビが、映像が生活空間に入ってくる最初の段階ってことだよね。

大岩 街頭テレビの文脈だ。

永田 街頭テレビ?

大岩 まだテレビが家庭に入っていないような、力道山とかの時代です。

永田 中華料理屋みたいな?

大岩 いや、外ですよ。

永田 ショーウィンドウにあるやつか。

山形 アオイホノオ[※10]という漫画で、登場人物たちは全員漫画家なんだけど、ショーケース内のブラウン管テレビに映し出されたアニメをずっと観ているシーンがあって。そのアニメがオープニングになった瞬間、「今だ!」と言って、登場人物全員が目にウオ〜って焼き付けるの。当時はVHSレコーダーがすごく高価で、テレビはあってもその映像を記録することはできなかったから、映像を目に焼き付けて紙に模写したりするんだよね。

永田 なるほど。そうやってテレビがお茶の間に入ってきて、そのあと家庭に1台デスクトップコンピュータが入ってきて、それがノートパソコンになって、今はスマートフォンやタブレット端末が普及している、と。

山形 一家に1台から1人に1台になっている。

デスクトップ的リアリズム?

永田 そういう時代ごとのメディアに対するリアリティから、時代時代に別種のリアリズムが生まれてきたという背景があるよね。テレビアニメとかだと、「まんが・アニメ的リアリズム[※11]」だったり、ゲームだったら「ゲーム的リアリズム[※12]」。「ケータイ小説的。[※13]」とかもそう。それぞれのメディアで経験される「あるある」みたいなもの、コンヴェンション[※14]がひとつのリアリティを形成したという経緯がある。それで、僕はやっぱり、「デスクトップ・リアリティ」とか「インターネット・リアリティ」[※15]の影響は大きいなと思ってしまう。もちろん世代的なものもあるし、単純にメディア状況としてもそう。あえて先程の腑分けで考えてみれば「デスクトップ的リアリズム」みたいなものなのかな。やはり「ポストインターネット[※16]」をどう考えるかというのは今あらためて問題にしないといけないところがたぶんあって、それはムーブメントとしては一段落ついたタイミングだからできることでもある。ICC[※17]の『インターネット・リアリティ研究会[※18]』はトークの記録がしっかりと残ってて、たぶん多くの人に読まれていて、意識している人も多いと思うんだけど。

山本 ICCはHIVE[※19]っていう動画のアーカイブがあるじゃない。ずっと。すべてのシンポジウムがアップロードできるように撮影されていて、かなりHIVEに上がっているんだけど、インターネットリアリティ研究会は、動画をあげない。なんでかっていうと、まだクローラビリティがないから。そのうち動画の中身が検索されるようになるだろうけど、いまインターネットはすべて検索をベースに物事を人が処理しているから、検索できるように全部文字起こししたんだって。

全員 へえ〜。

山本 ちなみになべたんさん[※20]が教えてくれた。

永田 今日の座談会にあたって改めて読んできたんだけど、そのときにもテキスト検索をかなり使った。

山本 (2Lペットボトルのお茶を取り出す。)

山形 コップなかったっけ?(展示撤収後の荷物を取り出す。)

大岩 コップ買ってた気がする。初日の深夜に買っていました。

山本 大岩くんひょっとしてすべてを記憶できる?

大岩 僕、結構記憶力いいです。

山本 深夜に何があったか知らないよ。

大岩 初日に松屋で夜食買うしばらく前にコップ買ってました。松屋で誰が何頼んだかも思い出せるかもしれない。

永田 こわっ。

大岩 キムカル丼ですよね?

全員 怖い!

大岩 永田さんたちが作業しているから、僕と悠さんとで注文聞いて買いにいったじゃないですか。そんなふうに約束したことって覚えてるんですよね、最後に会った日付とか覚えてます。

山形 僕と最後に会ったのは?

大岩 今日除くと、僕が山形さんのアトリエに預けていた荷物を取りに行った日だから、そうだ、『Surfin’』(展示終了)の2日後です。

山形 こわっ。

山本 そうやってすべてを連続的に捉えられるんだ。

大岩 三年くらいなら。

山本 ふつうさ、なんかこの世って連続してなくて、ちょっと前のことって「春頃」みたいな感じでブツンと過去になっちゃうんだけど。

大岩 ちゃんと3月21日として覚えてますね。

永田 3月21日何してたの。

大岩 3月21日は今適当に言った数字ですけど、たとえば高2の3月21日に誰と会ったとかは覚えてます。

永田 高3は?

大岩 高3の3月21日は、受験が終わってたから、その日は、僕の受験おつかれのご飯をしてくれました。部活の友達が。

永田 どうなってんの…。

山本 大岩くんHIVEみたいだね。検索できるHIVE。

永田 1ヘクタールのホワイトボード[※21]が脳内にあるんじゃないの。

大岩 話戻しましょう。

永田 ショックが強すぎて…えーっと…。

山本 ICCの話ね。

永田 ああそうだ。僕もあのトークアーカイブはよく読むんだけど、語られている内容が「ぽさ」の話に偏っているところがちょっと不満なんだよね。

山形 そうだね。画像のファイル形式の「硬い」とか「柔らかい」とか。

永田 そうそう、「ZIP(ファイル)がもっているパッケージ感」とか、「ウェブの質感」とかね。「Java Appletの角は,触ると切れそうな感じがする」とか、そういう質感の話をしていて。それは、インターネットやコンピュータに慣れ親しんだ人の「あるある」話で、彼らはそれをもとにインターネットとかコンピュータ的なものを素描しようとするわけだけど、それは新しいメディアによって拡張された素朴な自然主義的リアリズムにすぎないのではないかという疑念がある。

大岩 共有された性質を再現しているだけだから。有効ではあるけど。

山本 あとはまあ、「サブカルチャー」になってくるよね。確固とした。

永田 そこで考えるのは、このような「あるある」ではないかたちで、インターネット、コンピュータ以降の状況を描写するようなリアリズムのあり方があるんじゃないかということ。少し話が戻るけど、「まんが・アニメ的リアリズム」は自然主義的リアリズムのある種の拡張で、アニメとかマンガの〈お約束〉を前提化して物語を考えるというものだけど、インターネットリアリティ研究会での議論もそれと似たところがある。でも一方で「ゲーム的リアリズム」は、スクリーンを介したプレイヤーとゲームシステムの双方向的な関係におけるリアリズムの形式を目指すわけだよね。それは、ゲームプレイヤーの存在を物語内世界に組み込むというメタフィクショナルなかたちで実装されたりするわけだけど。そして、これにもう一つ加えておきたいのが、アレクサンダー・ギャロウェイの「ゲーミングにおける社会的リアリズム[※22]」で、これもまたゲームのリアリズムに関するもの。東の議論と似ているところも多いのだけど、東が〈ゲームシステムとプレイヤー〉の関係を考えたのに対して、ギャロウェイは〈ゲームプレイと現実社会〉の関係を考えていて、ゲームのリアリズムは「ゲーマーの情動的欲求と、彼らが住む現実の社会的文脈とのあいだに一対一の関係を築くこと」によってのみ達成されると言う。ギャロウェイはそれを説明する具体例として2つのゲームを提出していて、ひとつはetoy[※23]っていうアーティストグループが出してる《Toywar[※24]》というゲームで、もう一つが《America's Army[※25]》っていう米軍が開発したゲーム。それぞれどういうゲームかというと、まず後者は、いわゆる普通のフォトリアルなFPSなわけ。戦争シミュレーションゲーム。で、ギャロウェイはそれを「リアリスティックではない」と言う。なぜかというと、設定とかCGとかはすごいリアルなんだけど、そもそもそれをプレイするプレイヤーにはそういう戦争に対するリアリティがなくて、ただの虚構としてそれをプレイするしかないから。そして、一方《Toywar》はというと、eToys.comっていうetoyとよく似た名前の電子玩具メーカーがあるんだけど、この企業のナスダック株価を下落させるために設計されたシステムをもつゲームとなっている。だから、ゲーム内での行為がそのまま経済的な介入にそのままつながっていて、現実とゲームが地続きのものになっている。そういうゲームをギャロウェイはリアリスティックだというわけ。ここでもやはり共通するのは、ゲーム自体は素朴に言えばあくまでもフィクション的な構造なんだけど、そのリアリズムはプレイヤーを含めた全体的な構造のもとで生まれている。ちょっと話が長くなってしまったけど、デスクトップ的リアリズムとか、インターネット的リアリズムというものについて考えてみると、単に「インターネットの質感ってこんな感じだよね」、「データの質感とか画像ファイル形式の質感ってこんな感じだよね」ではなくて、マウスカーソルを操作する身体をもった主体も含んだ世界がどのようなものなのかということや、ギャロウェイ的に言えばコンピュータのデスクトップ上のできごとが表象を貫いて現実の空間にどのように作用しているかっていうのを考えるのが、ひとつの方向性としてあるんじゃないかと思う。こういった話は展示が終わったあとに、半ば反省的に言語化したわけだけど、そうやって個々の作品について考えると、例えば山形くんの《Desktop》は、ノートパソコンのシステムがどうこうというよりも、ノートパソコンというもの自体が生んだひとつの状況を描写した作品だといえるし、《情報くんと物質ちゃん[※26]》のiPhoneも、スマートフォンを通じたコミュニケーションが行われるような状況を物語を通じて描写している作品だといえるかもしれない。いささか単純化して説明してしまったきらいがあるけれど、そういった考え方で作品や展示の全体を分析していくことができると思う。ひとまず僕から見たときに、この展示がどういうことをやろうとしていて、個々の作品がどういうものだったかというのは、「デスクトップ的リアリズム」を今どう考えるかという問題へ引き寄せて考えられると思う。

大岩 映画とかまんが・アニメのリアリズムは表象にとどまっているから、表象物へその成果をフィードバックするときにはそれの「ぽさ」を反復する素振りが優勢になっていくわけだけど、ゲームやコンピュータならば表象を介した現実への操作性が出てくる。表象される対象が単にそれで存在論的に現実から区切られた領域にしかないとしても、表象自体が操作子になっている点が、映画などの単純なフィクションと異なるところで、フィクションを可能にしているルールを現実やその仕組みにスーパーヴィーンしうるものとして使っていく傾向性のあるものとして、ゲームやコンピュータなどのメディアは援用される。それはさっきの《Toywar》も同じですよね。

永田 残念ながら《Toywar》は資料が全然のこってなくて、どういうゲームだったか詳細にはわからないんだよね。

山本 消された?

山形 ウェブサイト[※27]はあるんだけどね。

永田 断片的な資料だけ残っていて、ウェブサイトも残ってるんだけど、ウェブサイトはリンク切れだらけ。ゲームの性質上、リアルタイムに一定期間しかやらなかったみたいなんだよね。それで、ゲーム内でおきたいくつかのイベントを株価のグラフと合わせて時系列にプロットした表みたいなものもあるんだけど、その真偽のほどもまたわからない。

山形 真偽不明みたいなのは、インターネット・アーカイブの宿命だよね。

永田 eToys.comっていう、上場しているわけだからおそらく大きな企業の、権力的なものに対する抵抗という構図はやはりあるようで。ギャロウェイ自体もゲームシステムは帝国であり、個々のプレイはマルチチュードだ、みたいなことを言っていて、制度的なものをプレイを通じて壊す、みたいなトーンがある。

大岩 あらー…。

永田 なので、《Toywar》 の評価が正当なものかどうかあやしいところもある。それでも、画面内のフィクションと、一方で現実の社会的政治的状況が——一対一であるにせよそうでないにせよ——対応をもってしまうというのは面白い。ともかく、このような背景があって、こういう(環境分析的な)話も深められれば深めつつ、個々の作品についても話しつつ、という感じでやれればいいなと思うんだけど。

大岩 そろそろ第一ヒントいきましょう。

山本 ヒントは、「宝石」です。ジュエリー。

永田 あとでもう一個ぐらいヒントあってもいい。

大岩 もう結構しぼられた。

山本 石ってなーんだ?のあとに宝石です。だからね。まあいいところなんじゃないの。

永田 たしかに、テレビ石でもないし、隕石でも岩礁でもないってわかっちゃっているからね。

キャスティング

山本 このあいだ京都に行ったときにきりとり[※28]さんと砂山さん[※29]に会って、きりとりさんが、もし批判的考察を重視してレビューを書くとしたら、と話していたのは、『Surfin’』展示者の座組のことだった。構造として、永田山形の問題意識と、それを相対化する大岩山本の態度という4者の2-2の構図が見える。ダブルデート状態。それが最初にまずぱっと見たときに自然に見えてしまう。そういうふうに考えると、部屋の話とかもそこに回収して否定的に理解できてしまう、と。「あ〜でも私そんなこと書くかな〜?」って話で終わったんだけど。どうしたらいいんだろうね。みんなでバチバチやったらいいのかな。

永田 プロレスだ。

山本 プロレス感はあったほうがいいのかもしれない。そうじゃないと物足りなく終わる可能性があるよね。でも難しい。展示前にアーティスト同士がプロレスやるのと、展覧会を終えたアーティスト同士がプロレスやるのではまた違ういやらしさがある。

大岩 もう一回展覧会をやればいいのでは?

永田 おっ。

山本 まあ、そんな話もあるよ。

永田 なんでそう見えるんだろう。でも実は山形くんと僕の二人展の話から発展したという経緯もあるので、実際にはそうなんだけど。

大岩 件のトークに登壇していた谷口さんとか邱さん[※30]を〈誘わなかった〉っていう文脈があるからよりそう見えるってのもありますよね。

永田 もちろん「ディスプレイ派」の議論はきっかけにはあったけど、そこで問題だと思われる制作や鑑賞におけるリアリズムの形式を、ディスプレイという単一のメディアの特性に結びつけてしまうということは避けたかったんだよね。そういう意味でも、ディスプレイの議論ありきで、それを展開しましょう、というように読まれてしまう可能性はちゃんと排除しておくべきだったかもしれない。

山形 展示をしようという段階になって、結構すぐに山本悠を誘おうという話になって。大岩くんも、永田くんと一緒にウェブサイト見ながら、この作品いいじゃんとなって。誰と展示をするかは結構早く決まった。

大岩 どれですか?

山形 シールのやつとか、口のイメージのやつとか。

永田 TWSの展示[※31]

山本 僕、映像の記録のやつ、30分位の。

永田 40分のやつかな。

大岩 卒制[※32]です。

山本 あれ、ほんっとおもしろいね。2回見ちゃった。

大岩 ありがたい——あの構造、『Surfin’』の猫作品にもつかってるんですよ。

山本 いかにして無限を封じるかみたいな、そういう形式を必ず導入しているなって思った。

大岩 無限が怖くないので、無限と戦い続けているんです。

山本 無限を壊すためのエージェントがちゃんと組み込まれている。

大岩 奇しくも、いま話題に出たシールも動画の怪談アンソロジー的構成も今回出てきた。まあ、でも場に要請されていましたね。

永田 まあ、家だしね。それに加えて、大岩くんは以前から、インスタレーション(設置芸術)とインストール(設置)に対して、ファニチャー(家具)とファニッシュ(調度)っていう概念を対地させていたじゃない。あれ面白いなと思っていて、家で展示するなら大岩くんとやりたいなって思った。チャイムの作品[※33]もそうだけど、展示空間と展示作品っていう二項関係から離れたところで作品を作ろうとしている感じがする。もちろん僕とか山形くんの「ディスプレイ派」の議論をどう考えるかっていう問題も企画のスタートにはあるけど、より拡張して考えたい。

大岩 家具(furniture)やそこから連想した調度する(furnish)という言葉はよくTwitter上で話しているんですが、まだきちんと理屈にできていなくて、たぶんここからもアイデアの断片を並べる形になってはしまうんですが、作品-を見る-展示というかたちへのカウンターとして提出しようとしているのはたしかです。

永田 ホワイトキューブっていうか、近現代的な展示空間ではさ、作品が偉くて、鑑賞者の身体は邪魔なわけじゃない。だから荷物をクロークに預けたりするわけだけど。でも、家ではそうじゃない。住人の身体が中心にあって、家具はむしろその周りにあるものだよね。

大岩 そうですね、ホワイトキューブでは鑑賞者は眼だけになってVR化するけど、生活空間では主体のだらしない身体、まあつまり生活がもちろん抑圧されない。そうした生活者にたいして、冷蔵庫がどういう存在のしかたをしているとか、テーブルが食事のときや書きもののとき、あるいはふだんは物置きだったりを考えると、家具ってものの経験は、視線という「距離において触れること[※34]」にもとづく超越的なモデルではない。使うときには無遠慮に触れまくって使い、使わないときにはイメージとしてすら忘却する。展示作品はふつう、原理的に忘却されないし、見落とされないんですよ。なくならないし、かかわりすぎない。ある作品に没入して隣の作品が見えなくなるということはあっても、それは、ふつうに生活しているときに布団を踏んで移動しているとか、冷蔵庫がそこにあることに意識が向かないとか、そういう原理的な希薄さ・無神経さとはちがう。冷蔵庫を置くとき、部屋の真ん中において存在感を出そうとは思わないじゃないですか。台所という領域にしっくり来るように冷蔵庫は調度される。あとは、家具一式は英語でimplementsと言って、これは実装(implementation)ともかかわる言葉なんですよね。表現する=外に押し出す(ex-press)のではなくて、実行する=内に満たす(im-ple-ment)。ちょっととりとめのない言い方ですが、こんな感じ。[※35]

家を土地にしない

山本 みんな意外と、家にのったよね。

大岩 サーフィンだから。

山本 サーフボードはよかった。けど、我々はサーフボードですら、浴室においてしまった。水回りだから?で、そういうことを、僕は展覧会終わってから反省的に思うようになっているんだけど、つまり、シャツがあったり、デスクトップパソコンがあったりとか、ノートパソコンがなかったりとか。あれがぜんぶ白い展示台に乗ってたらどうか、とかね。

永田 確かに白い展示台を用意しようっていう話もあったんだよ。

山本 部屋からぜんぶ浮遊するように展示したらどうだったか、というのは思う。

永田 ちょっとエクスキューズになってしまうんだけど、最終的に作品数が多くなりそうだという状態になって、鑑賞のしやすさを担保するために2段組にするというアイデアが生まれたのよね。山形くんの平面作品とか、山本悠のマグネットは高い位置に、映像は低い位置にっていう。入り口はどうしても人が溜まってしまうんだけど、《情報くんと物質ちゃん》を見ている人は座ってて、サーフボードを見てる人は立ってるから、それなりに鑑賞できる、という。あとは壁面をある程度残しておけるように、モニターを床においたりとか、大岩くんの猫作品のダンボールをひとつ減らしたりとか。それによって家っぽさが強まったのかも?地面に座り込むとかね。それは面白い側面でもある。

大岩 家という生活空間がたくさんの鑑賞点=パースペクティブをはらみながら機能しうるのは、身体のモジュレーションがあるからで、今回はそれを逆行して使っていた。身体のモジュレーションを誘発するようにものを配置すれば、空間の密度を上げても機能する、という。

永田 それによって、変に家っぽくなった側面もあったのかな。

山本 妙にパーソナルな印象はあったのかもしれない。

永田 こういうこと言うと、プロレスっていうより醜い責任のなすりつけあいになりそうだけど、マグネットが持つ影響は大きかったよね。

山本 マグネットはメルツバウ[※36]なので(どや顔)。ダダイストのクルト・シュヴィッタース[※37]の焼けてなくなった家なんだけど(しょんぼりした顔)。

大岩 メルツバウは中心点がないんですよね。《蟻鱒鳶ル[※38]》もそうだけれど、個人のアドリブが長期にわたる施工は、日記みたいに複数の主体的行為の痕跡をふくんで、圧着した構成になる。

山本 どんどん自分のいられるスペースは減っていくよね。やっていくと。

永田 無限の増殖を止められるのは火災ぐらい。

山形 永田くんが言うと重い[※39]な…。

山本 僕は無限より火災のほうがこわい。

大岩 火災で焼けて再制作したりしていた作家誰でしたっけ。中原浩大[※40]かな。

山本 中原浩大?中原浩大燃えたの?

永田 アトリエが燃えていたかも。

山形 ナディア[※41]も溶けちゃったの?

大岩 全部が溶けたかわからないけれど、破損部を修復だけした作品もあったはず。まるまる再制作したものもあった。

山本 レゴモンスター[※42]も?

大岩 どれも再制作してるみたいです。

永田 僕、なんでそれを知っているんだろう。

大岩 僕BankART[※43]の展示のときに知りました。

大岩 普通家って、家主が一人じゃないですか。「だれも、二人の主人に仕えることはできない」[※44]。家主=父がいて、それが消失点になっている。今回の展示は作家が複数いるから、消失点が複数になってメルツバウ化するのは、当然の帰結かもしれない。でも一方で家化しているっていうのは、そもそも普通の家はだいたいメルツバウだということでもある。例えばマグネットにせよシールにせよ、貼れば貼るほどメルツバウにはなる。

永田 家を展示場所とした展示でまっさきに考えられるものとして、「私の家」展みたいなのが考えられるよね。要するに、展示はやりたい、情熱はあるけど、場所がないというときに、自分の家で展示をやるという。で、そうすると往々にして「私の家、私の作品」みたいな、自分のアイデンティティの拡張としての家、ひいては作品という構造になる。

山形 実際あるしね。

大岩 実直といえば、実直。

永田 まあ、そういうのを批判するつもりはないんだけど、そういうものにはしたくない。

大岩 そもそも『Surfin’』の会場は、引っ越しに失敗した、誤配された家なので。

永田 たしかにね。だから、やはり家をめぐる散種の働きについて考えたい。家-性を表現主義的な=パフォーマティブな次元で単一化するのではなくて、鑑賞の時間のなかで意味が揺れたりズレたりするようなものとして扱うというか。でも、家ってそもそも生活時間のなかで運用される、意味の運動を伴う空間だよね、と一周してしまったのがここまでの話なのかな。展示をもう一回やるかどうかはさておいて、もしやるとしたらどういう可能性があるのかというのは考えてもいいかもしれない。というのも、サイトスペシフィックなもののオルタナティブを提出する、とステートメントでは書いていたわけで。例えば、さっき話した〈私の家〉はちょっと文脈的には微妙だけど、サイトスペシフィックなのよね。〈私の家〉というある種の土地性を扱うわけだから。そうではなく、観念的なレベルの家を扱うという姿勢で展示をするというのは、いくつもある家-性を抽象的なレベルで扱うという態度といえる。例えば、所有者の問題は扱いませんよとか、一方でワンルームという構造は扱いますよ、とか。ワンルームには、コンピュータが置かれていて、というような文脈については考えますよ、とか。だから、ある種モデリングされた家っていうか、抽象的に構築された家というのを扱っている。

山本 うん。

永田 そのあたりの手つきを検証することで、今回の展示で「いわゆる家」になっちゃったというのはどういうことなのか考えられるかもしれない。

素晴らしきかな、ひきこもり

山形 家とか部屋について考える上で思い当たることとして、よくインターネットで目にするSNSなどの自撮り=セルフィー文化かな。特に女性に顕著なのだけど、自分のベッドの上など、自身のプライベートなシーンを示唆するような場所で意識的に自撮りをすることとか。ベッドで思い出したけど、ベッドとインターネットの関わりにおいて代表的なものだと、IDPW[※45]が企画した、みんなでビデオ通話しながら寝るという《The Internet Bed Room[※46]》がある。たしか90人くらいが参加していて、ウェブアーカイブでそのときのみんなの寝顔も見れるはず。あとはインターネットではないけど、ソフィ・カルのベッドの作品[※47]も自宅との関係性がある。カルの自宅のベッドで行われるから、作家自身の個人性というものが強く立ち上がるけど。

永田 ベッドというモチーフは僕も気になっていて、ちょっと前に山形くんがツイッターで紹介していたけど、Olia LialinaとCory Arcangelの2人展[※48]でもベッドがモチーフとして扱われていたよね。ポストインターネット・アートでモチーフとしてベッドが扱われているのは頻繁に見る。すこし前にウェブマガジンで『素晴らしきかな、ひきこもり[※49]』っていう記事あったじゃない。

山本 「家にいること自体がサブカルチャーになった」っていうやつか。なんというか、ヌケ感のあるウェブ記事だったね。でもまあ、思い当たる節がないかと言われれば、ある。

永田 これ見て思うけど、「家にいることがサブカルチャーになった」っていうよりも「家にいることがフィクションになった」って感じがするんだよね。このウェブ記事、掲載されている写真で用いられている服とかアイウェアにリンクが貼られていて、クリックすると商品名と価格が表示されるのよね。SSENSE[※50]はそもそもがECサイト[※51]で、記事はその販促という側面がどうしてもあるので、記事はそこで取り扱われているファッションアイテムをめぐるフィクションとしての役割がある。この記事で個人的におもしろいと思うのは、そのフィクションの舞台として、誰か特定の人物やフィクショナルに共有されたキャラクター、例えば有名セレブや「公私共に充実したキャリアウーマン」の生活とかではなくて、SNSなどを通じて共有されている生活や家、部屋に対する感性が用いられているところ。掲載されている写真は明らかに非日常的なフィクションなんだけど、それを飾るテキストには思い当たる節がある。具体的な誰かのライフスタイルへの同一化を促すのではなくて、虚構的なイメージと現実的な実感の持てるテキストを並べて提示している。[※52]

大岩 リテラルな言及とフィクションと、異なるコードの共感のかたちがたとえばひとつの記事でべったりくっついてて、差延を垂れ流しつづける仕組みになっている。いまや家にいることも、それだけで素朴に私-生活として受け取られるだけでなくて、生活のシミュラークル[※53]を、そのはしばしに貼り付けてしまっている、っていうリアリズム。

永田 家-性みたいなのを横にずらしていけると面白いと思うんだけどね。

こいつ……家じゃないな……

山本 ギャラリーにワンルーム仮設して、『Surifn’』はエミュレートできるような気がする。再現できるよね?でも、たとえば、『DJもしもしの幽霊について[※54]』は、ギャラリーに部屋を仮設してもできない。『DJもしもしの幽霊について』は、マンションの一室で行われた展示で、予約制で、その部屋に行くと一人の女性がいる。その人はAI KOKO GALLERYのオーナーなんだけど、もしもしはそこにはいない。それで、彼女がDJもしもしが寝てた布団を指差すんだけど、そこから話をしていく。話によると、DJもしもしが上の階に同じ部屋を再現して住んでるとか、いろいろそういうDJもしもし部屋をめぐるフィクションが展開するっていう。そういうものなんだけど。僕は聞き込み能力が低くて、深く情報を引き出せなかったから、あまり状況をつかめなかったんだけど。

大岩 『Surfin’』の展示空間も問題として、「誰の家か?」という問いがつきまとっている。『DJもしもしの幽霊について』ならば、あの家-空間にいる女性に関しても似たような宙吊りの問いが生まれている感じがする。作家本人ではないあの人はどの立場で喋っているのかと考えると、まずギャラリストとして語っているけれど、家主ないし、留守番者ともいえる。しかしあの空間の質は、フィクションとしての家を眼前と呈しているわけで。フィクションの境界ないしフレームが見えづらくなっている。その空間が家である、かつ/あるいは/ないし/etc…ギャラリーであるという宙ぶらりん、言ってしまえば不用心な状態を間接的に語ることによって、枠組みが不明瞭になるわけですよね。アイロニカルな入れ子では表現しがたい、混交した状態が放置されている。そのため、フィクションのだらしない枠組みが帰り道とかまで広がっていってしまう。で、『Surfin’』に照らせば、まず「私の家」である印象は、生活感の除去、とくに〈寝具の不在〉によってされるいっぽうで、「誰かの家」にお邪魔している感覚は残している。人を招くとき、生活感は差し引かれ寝具は隠されるような、小奇麗な質感が演出されてしまっている。さらにいえば、たとえば恋人や家族、あるいは自分自身にたいしては、部屋をそうして小奇麗にすることがないのだから、そうした親密さには届かない余所者としてのありかたを、鑑賞者の身体に付与する。これは親密さも余所者でもない、純粋な眼に還元されるホワイトキューブにたいする相対化を、メルツバウ的なフィジカルな負荷とは異なるしかた、異化効果をつぎつぎ複数絡めるために、なにから異化しているかは判然としないが、ともかくミニマルな不気味さ、小気味さが生じているという単位でなしているのかも。でもそうしたものが複合化して基調となっているのは、人の家にお邪魔して、居間には招かれるけど、寝室に入るのはマナー違反というような状態かなあ。

山形 そうだね。

大岩 あの部屋は誰かの〈ワンルーム〉に行った感じではなくて、2LDKの家に行って寝室には入らなかった、という感覚に近い。家っぽさはあるけど、ワンルームの人の生活している空間としてはぜんぜん足りない——から〈私の家〉の家主が否定的に表象されることもない——感じがする。でもそれは場のコードが混在してしまった宙吊り感が事後的に呈したようなもので、つねに 別の空間の記憶が引き出されきらない感じがある。記号的にワンルームかどうかというより、空間単位での機能が、鑑賞のシークエンスのうえで転々と交換される話だと思う。

山形 友人が、友達の家にゲームしに行ったみたいな心象で観賞したと言っていた。

大岩 友達が来ると家片付けるじゃないですか。招かれた友達は友達で、そのホストの家は片付けられているから、ある程度自由には過ごすのだけれど、いろいろ気遣う。そうした遠慮の振る舞いが、身体においてギャラリーマナーみたいなものと重なって混濁してくる。ある家に行ったとき、その家がギャラリーのごとく、何らかのマナーを要求してくる、という点で重ねられている。

家、曖昧なフィクション

永田 なんか今の話の流れだと、土足問題[※55]とかにつなげたくなるけど、発展性あるかな。

山本 超楽しいけどね。

大岩 土足で入ってしまうのは、そうした不用心さにおいて家かギャラリーかが判断つかず、どちらかわからないからというのがあると思う。

永田 キッチンの扉を開けようとするなんてことは、他人の家だったら絶対やらないわけじゃない?ちょっと無理があることを承知で言うんだけど、「家にいることがフィクションになった」ってさっき少し言及したけど、展示空間において家がフィクション化してたからそういう無作法ができた、という可能性もあるんじゃないかな。例えば、人に会って直接悪口とか暴言とか絶対言えないけど、Twitterアカウントだったら言えちゃうみたいな、一回メディア通すと傍若無人になれるというか。友達の家行って、友達がいないうちにキッチンの扉開けるのはできないけど、概念としてキッチンに自分がいるって思った瞬間にそういうことができてしまう、という。

大岩 ここでフィクションと言うのは、家にいるという体験自体がサブカルチャーとして記号化され、「超虚構[※56]」のごとく、実感から遊離してしまったということなんでしょうけど、そうした家-性が、記事で言及されているような時代性によるものなのか、単純に展示だからなのか、というのを判断するのは少し難しい。

永田 まあそうだね。普通に「脱出ゲーム」的な構造の展示だと思われていて、この引き出し開けたら何か隠された作品があるんじゃないか、とか思われていた可能性もある。

大岩 「隣の部屋に在廊してたんでしょ?」って言われたりもしました。そんな金はない。

永田 あのマンションがどういうビルなのかわからなかった可能性については加味して考えないといけない。僕たちは普通のマンションだってことを知っているんだけど。たとえば商業ビルとして使われていて、他の階は事務所とかになっているんだけど、あの部屋だけああいう狭い部屋で、偶然空いたので誰かが運営している、とか。

山形 想像はできてしまう。

永田 家っぽいけど家じゃないんじゃないか、と思っている人もいたかもしれない。

大岩 それは普通に有り得る。だって、家で展示はできないだろう、という想定も、オープンアトリエの文化が根づいていない日本では不思議ではない。

山形 あとは、自動解錠[※57]の仕組みとかも特徴的だったよね。

大岩 トイレに隠れているんじゃないかって言っている人もいた。トイレ待機は辛いなあ。

山本 アートに期待してるんじゃない?

大岩 解錠システムとか、展示の系に入れるか曖昧だった要素が機能するのを看過してしまったので、その点は反省点。

山本 そう考えてみると、単なるサイトスペシフィックに堕していたわけではないらしいと、思えてきた。思えてきたぞ。

大岩 そろそろ第二のヒントいきましょう。

山本 サーフィンをする人はサーファーです。

山本 次でわからなかったらどうしよう。次はもう単語から教えないといけないかもしれない。Water! Water![※58]

大岩 素朴に家とはいえない。リテラルないしある種の盲目を衒うことでしか。

山形 僕達も記憶を消して僕らの展示に入りたかったね。

永田 記憶消して入ったらどう思うんだろう。

大岩 初日に言ってましたね。

山形 大岩くんでも記憶は消せないんだね。

次回へ続く

永田 ちょっと疲れたし一旦ご飯行きます?

山形 ご飯、どっか開いてるかな。

永田 ご飯食べつつ続きをやる、みたいな。

山本 無理無理。グダグダの話しかできないよ。

永田 まあそうか。なんにせよお腹は空いたので、ご飯は食べたい。

大岩 どこ行きます?

永田 ひとまず上野駅周辺で探すとして、向かいつつ考えよう。

山本 僕、大岩くんに合羽橋商店街の話をしたいんだよね。

大岩 皆で合羽橋行く会やります?

山本 やばいよ、絶対面白い。合羽橋、コスース[※59]の作品みたいな街だよ。

永田 どういうこと?

山本 ソフトクリームのノボリとかがさ、あるじゃん。街に。で、ソフトクリーム食べたくて店に行くんだ。でも合羽橋にはソフトクリームは売ってなくて、売ってるのはメニューボードやノボリだけなんだよ。

永田 合羽橋にあるもの、どこまで真に受けていいかわからよね。でも、たとえば事務用品店も同じように店舗のしつらえと商品が分別できない気がするけど、合羽橋商店街ほど奇妙の印象受けない。なんでだろう。

大岩 路上に商品が陳列されているから、どこまで店舗かっていう境界が確定できないというのはあるかも。

山本 合羽橋には、青空の下に売り物を売るための物が並んでいて、値札がついてるんだよ。でも…合羽橋にはね、値札を売っているお店もあるんだよ。

山形 皆で合羽橋いこうよ。そこで今日の続きやろう。

永田 そうしよう。今日もう疲れたし。続きは合羽橋ということで、改めて予定組みましょう。

大岩 いいですね、そうしましょう。今日はひとまずおわり、ということで。

——7月某日、上野にある山形くんのアトリエにて収録。次回は9月上旬公開予定。

[※01]ラーメンズ『不思議の国のニポン』, 2015, 第15回公演『アリス』( https://www.youtube.com/watch?v=enoUCj-WNCI )
[※02]プーチンとマーチン』, 2009, 第6回公演『FLAT』( https://www.youtube.com/watch?v=gEB58_WSsko )、ラーメンズ『マーチンとプーチン2』, 2011, 第11回公演『CHERRY BLOSSOM FLONT 345』( https://www.youtube.com/watch?v=EEIAqrGJLSc )
[※03]ラーメンズは、すべての作品を公式にYoutube上で公開し、それによって得られる広告収入を日本赤十字社に寄付している。
[※04]谷口暁彦:アーティスト。1983年生まれ。多摩美術大学美術学部 情報デザイン学科講師。( http://okikata.org )
[※05]谷口暁彦は彼の個展『超・いま・ここ』のトークのなかで、近年のデジタルメディアを用いた表現の傾向について、欧米と日本で違いがあると指摘した。彼によれば、欧米ではヘッドマウントディスプレイを用いた作品をはじめとしたいわゆるVR(ヴァーチャル・リアリティ)を扱うものが多いのに対し、日本ではディスプレイを用いた表現が多い。彼はこうしたディスプレイに対する注目は日本に特徴的にみられるものだとし、これらの表現を「ディスプレイ派」とくくることができるかもしれないと提案した。
[※06]『谷口暁彦個展「超・いま・ここ」』2017.04.08-23, Calm and Punk Gallery, 東京 (http://calmandpunk.com/exhibition/谷口暁彦-個展「超・いま・ここ」 )
[※07]山本悠『R2D2でわかるディスプレイ派』2017.04.23- などへの反省。
[※08]1926年12月25日、日本ではじめてのテレビ送受信実験で「イ」の一文字が表示された。
[※09]『FRAMED*』, 2011, 大岩が言及しているGizmodoの記事は『 アートを「枠」から解放する。中村勇吾氏率いるFRMの「FRAMED 2.0」』( http://www.gizmodo.jp/2014/07/framed20.html )
[※10]『アオイホノオ』は島本和彦による漫画作品。2007年連載開始。
[※11]大塚英志が2000年に『物語の体操ーみるみる小説が書ける6つのレッスン』(星海社)のなかで提唱したリアリズムの形式。大塚は、小説家の新井素子が毎日新聞(1978年1月22日朝刊)のインタビューにおいて「マンガ『ルパン三世』の活字版を書きたかった」と述べていることをとりあげ、「彼女の小説は「現実」の世界を多少なりともリアルに文字に置き換えようというこの国の自然主義的なリアリズムからあっさりと切断されて」おり、「「現実」ではなく「アニメ」という虚構を「写生」しようとした作家だった」として、「自然主義的手法を「現実」にではなく「アニメ」に適用してしまった最初の小説家」であると評価している。
[※12]東浩紀が2007年に『ゲーム的リアリズムの誕生〜動物化するポストモダン2』(講談社)のなかで用いた分析概念。「ゲーム的リアリズムは、ポストモダンの拡散した物語消費と、その拡散が生みだした構造のメタ物語性に支えられている。その表現は、まんが・アニメ的リアリズムの構成要素(キャラクター)を生みだすものでありながら、物語を複数化し、キャラクターの生を複数化し、死をリセット可能なものにしてしまう〔…〕」(p.142) 同書第一章で東は、従来の文芸批評を物語と現実とを照応させる「自然主義的読解」とみなす。それは言文一致・私小説由来の文学と現実との関係の〈透明性〉に依拠しているために、まんが・アニメ的リアリズムを経由してキャラクターと物語を複数化させる想像力で駆動しているビデオゲームには通用しないとし、そうではない、物語をそれが連続する外部の環境のともに捉える「環境分析的読解」による批評を、桜坂洋『All You Need Is Kill』をモチーフに実演する。「〔…〕その全体への介入が物語とメタ物語の組み合わせで表現された、複合的なテキストとして」(p.182)読み解くと東がいうのは、ビデオゲームの読解は、単に文化的時潮=〈「ぽさ」という想像的な性質〉からのみならず、そもそもそのメディアとしての条件において物語の複数性が駆動しているという物語外的現象をも射程に入れることでアクチュアリティをもつということだ。
[※13]『ケータイ小説的。——”再ヤンキー化”時代の少女たち』(原書房) 清水健朗, 2008
[※14]ロザリンド・クラウスはコンセプチュアル・アートにおいて写真メディア、とりわけ報道写真などの利用は、キャプション=言葉に依拠にするがゆえに絵画あるいは黎明期の芸術写真のような自律性・固有性を欠くことで、それが制作物であるという〈再帰的=反省的条件〉に差し戻し、メディウムを〈再発明〉するという。そこではかつての物質的支持体に変わって、メディア=メディウムを、その「〔…〕所定の技術的支持体がもつ物質的条件から生じてくる(が、それと同一ではない)慣習にもとづいた約束事(convention)」に展開するのだ。Rosalind E. Krauss, 1999, “Reinventing the Medium”『メディウムの再発明』2014, 星野太訳, 月曜社『表象08』所収, p.54
[※15]どちらもICCにて行われた座談会『インターネット・リアリティとは?』のなかで用いられたターム。「デスクトップ・リアリティ」はアーティストの渡邉朋也が座談会内で発言している。注12も参照。
[※16]アーティストのマリサオルソンが2008年の”We Make Money Not Art”のインタビューで提唱した概念。インタビューの中で彼女はニューメディアの領域と伝統的なメディアの文脈は混ざり合っていると主張し、ニューメディアのインパクトが伝統的なメディアの文脈における作品群に影響を与えたり、ニューメディアアーティストとされている作家が伝統的なメディアを用いたりしていると指摘した。「ポストインターネット」は、そうした状況においてインターネットがデジタルメディアのみならず文化全般に影響をあたえるようになった時代状況のことを指している。
[※17]NTTインターコミュニケーションセンター。1997年に初台に開館した、ニューメディア・アートを中心に扱う美術館。
[※18]2011年7月に開催された座談会『インターネット・リアリティとは?』をきっかけに発足した研究会。( http://www.ntticc.or.jp/ja/feature/2012/Internet_Reality/index_j.html )
[※19]ICC館内とウェブで視聴できるICCの映像アーカイブ。ICCは、所蔵するビデオ・アート作品、インタビュー映像、活動記録をデジタル化して、館内に設置された端末で閲覧できるようにしている。ここでは、それらがウェブ上で展開されたHIVEのウェブサイトについて言及している。( http://hive.ntticc.or.jp/ )
[※20]渡邉朋也:アーティスト。1984年生まれ。

[※21]科学者のジョン・フォン・ノイマンは、1ヘクタールのホワイトボードを脳内に持っていて、そこから情報を自在に引き出せたという逸話がある。
[※22]“Gaming - Essays on Algorithmic Culture” Alexander R. Galloway, 2006. の第3章で提示された概念。ゲーミングにおけるリアリズムは、単なるリアリスティックな表象によってではななく、「ゲーマーの情動的欲求と、彼らが住む現実の社会的文脈との一対一の関係」を築くことによってのみ達成されるものであるとギャロウェイは考えた。こうしたリアリズムのありかたを、ギャロウェイは文学における語り(narrative)のリアリズムや絵画などにおける写実性=像(image)のリアリズムと比較して、行為のリアリズム(realism in action)と呼び、ビデオゲーム分析に用いた。ギャロウェイはこの概念を展開して「カウンターゲーミング(countergaming)」という概念も同書のなかで提出しているが、ここでは省略する。ここで重要なのは、ギャロウェイのいうリアリスティックなゲームプレイが、フィクション内で完結したものではなく、現実のプレイヤーによって駆動され、同時に表象=フィクション越しに現実の社会的文脈へと作用しているという点である。日本語の解説としては、『ユリイカ 2017年2月号 「ソーシャルゲームの現在——『Pokemon GO』のその先」』に所収されている吉田寛の『〈抗い〉としてのゲームプレイ——ゲーム的リアリズム2.0のために』がある。
[※23]1994年に結成されたヨーロッパのアーティストグループ。スローガンは"leaving reality behind."(リアリティを置き去りにせよ)。
[※24]“Toywar” etoy.CORPORATION, 1999-2000
[※25]“America’s Army” United States Army, 2002
[※26]山本悠《情報くんと物質ちゃん》。初出は、『マテリアライジング展Ⅲ – 情報と物質とそのあいだ』、京都市立芸術大学ギャラリー @KCUA、2015.5.16-6.12 ( http://materializing.org/15_yamamoto/ )
[※27]《Toywar》は”WAR DOCUMENTATION”と称して、一部の資料をウェブサイト上で公開している。( http://toywar.etoy.com/ )
[※28]きりとりめでる:1989年生まれ。京都市立芸術大学大学院美術研究科芸術学専攻修了。展示の企画を行ったり、主に写真論にかかわるテキストを書く。
[※29]砂山太一:アーティスト、キュレーター。1980年生まれ。京都市立芸術大学美術学部総合芸術学専攻特任講師。
[※30]邱和宏:アーティスト。
[※31]大岩雄典『私はこれらを展示できてうれしいし、あなたはこれらを見てうれしく、これらは展示されてうれしい』トーキョーワンダーサイト(TWS)渋谷、2015.12.19-2016.1.24 ( http://euskeoiwa.com/news/20160224.html )
[※32]大岩雄典《11/11》第65回東京芸術大学卒業・修了作品展覧会、同上野キャンパス、2017.1.26-1.30 ( http://euskeoiwa.com/works/2017/1111.html )
[※33]大岩雄典《chime》大岩・吉野俊太郎二人展『囚人は通夜にいきたい』、アートスペースココノカ、2016.5.13-5.19 ( http://euskeoiwa.com/works/2016/chime.html )
[※34]モーリス・ブランショは視線を「距離において触れる」ことと表現し、視線がその対象をイメージ=幻惑に留め、現実的なものを知覚させない、すなわち見る者を不可能性に閉じ込めることを強調する。Maurice Branchot, L’espace Litteraire, 1955, 『文学空間』「本質的孤独」,1962, 粟津則雄・出口裕弘訳, 現代思潮社 「見るということは、距離と、ものを分離する決定力と、ものに接触せぬ能力および接触した場合に混同を避ける能力とを、前提とする。見るとは、この分離が一方で出会いとなっていることを意味している。」(p.25)
[※35]「それらの力学の中心にあるのは、住居の恐怖にほかならない。家具の置き方は、死をもたらす罠の配置図であり、ひと続きの部屋は、犠牲者が逃げようとする経路を、あらかじめ定めている」(ヴァルター・ベンヤミン(1928)『一方通行路』「マンション、十間、高雅な家具つき」,1997,久保哲司訳,『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』所収)
[※36]クルト・シュヴィッタースが1923年から1937年まで継続的に制作した自宅《メルツバウ》は、内装を過剰に改造した結果、「洞窟cave」(Brian O’Doherty(1999) “Inside the White Cube: The Ideology of the Gallery Space”)と称されるような彫刻的空間を内部に展開した。1943年の戦火で焼失。O’Doherty,1999では、シュヴィタースは「鑑賞者を囲い込む〔…〕混沌とした多重知覚の作動」と「構成主義をつうじた、従来の劇場の解明」という二つの演劇的なものを分けて考え、そうした演劇的手法が当時の潔癖な(immaculate)ギャラリー空間では生きながらえないことを認識した、という。ここで《メルツバウ》は、その中のオブジェクトを変形させるようなひとつの文脈である「変形の部屋chamber of transformation」としてのギャラリーの最初の例として、観念論的なひとつのオブジェクトとなるホワイトキューブの前身に位置づけられるのだが、本テクストではいっぽうで、観客を「眼Eye」ないし「傍観者Spectator」に還元してしまうホワイトキューブのある否定神学性へのカウンターになるような、「眼の複数化」の契機を実践的に実装した場所として、メルツバウを挙げている。
[※37]クルト・シュヴィッタース:芸術家。1887年生まれ、1948年没。
[※38]岡啓輔が東京都内にセルフビルドしている建築。
[※39]永田の住んでいたアパートは2012年に全焼している。
[※40]中原浩大:美術家。1961年生まれ。京都市立芸術大学美術研究科修了、同彫刻科教授。
[※41]中原浩大《ナディア》1991-92
[※42]中原浩大《無題(レゴ・ワーム)》1990。《ナディア》(注31参照)とともに、2010年のアトリエ火災で焼失ないし破損したが、2013年の『中原浩大 自己模倣』展に際して再制作された。
[※43] 田中信太郎・中原浩大・岡崎乾二郎『かたちの発語』、BankART1929、2014.4.25-6.22 ( http://www.bankart1929.com/news/2014/04/post-69.html )
[※44]『マタイによる福音書』6:24
[※45]「100年前から続く、インターネット上の秘密結社」を自称するアーティストグループ。2012年ごろから活動が表面化している。
[※46]IDPW《Internet Bed Room》 ( http://idpw.org/bedroom/ )
[※47]ソフィ・カル《眠る人々》, 1979, 見知らぬ人々を自宅へ招き、自分のベッドで眠る様子を撮影したものにインタビューを加えた作品。
[※48]Cory Arcangel, Olia Lialina『Assymetrical Response』,Kitchen (New York),2017.1,11-2.18
[※49]SSENSE『素晴らしきかな、ひきこもり』( https://www.ssense.com/ja-jp/editorial/the-great-indoors )
[※50]カナダ発のオンラインセレクトショップ。オンラインショップにもかかわらず、ランディングページをファッション関連のウェブマガジンにしており、それぞれ記事から各商品へとリンクするという特殊な形式を取っている。( https://www.ssense.com/ )
[※51]商品やサービスを販売するウェブサイトのこと。ECはelectronic commerce(エレクトロニックコマース=電子商取引)の略。
[※52]主体の同一化における二重性については、東浩紀の「インターフェイス的主体」の議論を参照したい。心理学者のシェリー・タークルは、1990年代のコンピュータ文化において、ユーザーがインターフェイスの背後で何が起きているかについて関心が示されなくなっていることをあげて、こうしたユーザーがインターフェイス(interface)で示される内容を額面通り(at face value)で受け取っている「at interface value」的態度であると指摘し、そのような主体においては、コンピュータースクリーン上の複数のウィンドウのそれぞれに異なったペルソナをもっており、その一つ一つに同一化することができるため、アイデンティティが複数化しているのだと論じた。東はこの指摘に対して、こうした「at interface value」的態度において、コンピュータースクリーンに表示される情報が二重化されているという観点を導入する。つまり、ユーザー=インターフェイス的主体は「仮想現実を一方で(目で)虚構だと知りつつも、他方で(言葉で)現実だと信じる」のだと指摘し、アイデンティティが複数化しているのではなく、インターフェース=界面において二重化しているのだと論じた。東はこうした前提のもとに、ラカン派精神分析の図式を適用しつつ「インターフェイス主体」の定式化を試みている。(東浩紀『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』(2011) 河出文庫)
[※53]東浩紀,同,p.106 「〔たとえばMUDでいえば、スクリーンの上のテキストを単に文字列として想像的に眺めつつ、他方でそれを現実の表象としても象徴的に解釈するというように、ポストモダニズムにおける「インターフェイス的主体」における、〕現実ではないが同時に現実でもあるという両義的な感覚、しばしば仮想現実の『シミュラークル性』とも呼ばれているそのゆらぎは、構造的にはその〔イメージの想像的処理と象徴的処理の〕往復運動で与えられている。」
[※54]高木薫『DJもしもしの幽霊について』, AI KOKO GALLERY, 2015.10.12-11.14

[※55]展示会場には土足禁止の注意書きがあったのにもかかわらず、土足で展示会場に足を踏み入れてしまう人があとを絶たなかった。会期中に入り口に注意書きを追加することによって解消された。
[*56]筒井康隆は『虚構と現実』(1979)で、「(…)非現実感というにはあまりにもわれわれが虚構内体験で熟知している感覚であったことによって、否応なしに非日常的現実性と言おうか擬似日常性と言おうか、そうしたものの境界内に入りこんでしまい、デジャ・ヴ的な現象をわれわれの意識内に惹起」するものとして「超虚構」概念を提示した。藤田直哉は『虚構内存在:筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉」(2013,作品社)にて、そうした「超虚構概念」について、筒井の小説『虚人たち』(1981)の描写が、「日常性を徹底することにより、『既成の解意』を超えた超虚構の世界を開示し、そしてこの世界に新たな可能性を付け加えようとする」(p.125)ことを指摘する。すなわち、日常的な行為を微細に描写することは、日常を実直に描写することを超えて、それとは異なる質をもった、抽象化ないし虚構=フィクション化された〈日常〉を描き出すということだ。こうした日常描写はジュネットの分類によれば、言説の持続と内容の持続とを相等的に対応させる〈情景法〉にあたるが、それは描写においてその対象にヒエラルキーを適用せず、リテラルに、起きるものを分別せずに描写することとも言える。「日常は私たちが第一回目に決して見ることのないもの、再び見るrevueことしかできないものだからである。私たちは、日常によって構成される幻影を通じて、日常をつねにすでに見てしまっている」とブランショが言うように(『日常の言葉』1969,2008,西山雄二訳,思潮社,現代詩手帖特集版:ブランショ2008所収,p.196)、日常とは、あくまでそのイマージュだけを思い出される、いわば〈顔なき〉ものであり、ジュネットの語法を再び用いれば、日常はつねにテクストの中で〈省略法〉でのみ不-描写され、かつ〈括復的〉に思い出されることしかできない、とパラフレーズすることもできよう。そうした日常を情景的に、均質なオブジェクトとして描き出すということはたしかに、日常ならざる日常、フィクション化した日常を抽出する作法かもしれない。
[※57]展示会場のエントランスはオートロックシステムになっており、来訪者が特定の番号を押してインターホンを鳴らすと、自動的に解錠される仕組みになっていた。
[※58]ヘレン・ケラーが家庭教師のアン・サリヴァンに教わって最初に発したとされる単語。
[※59]ジョセフ・コスース:コンセプチュアル・アーティスト。1945年生まれ。