コンテンツとはシールにできるかどうか
きりとりめでる

導入

 展示を見ていて、これは作品なのだろうか?と考えることがある。「これは作品なのだろうか」というのは、例えば、映像作品があった時に使われている周りのケーブルやプロジェクターやMac Proも「作品の一部」なのか、「無いものとして考えて欲しい」ものなのかということである。そこに政治性があるのかどうか。

 もちろん、今現在、映像作品において電気系統の処理は必須であり、その痕跡が全く介在しない設営であれば、その技術は相当なものだ。場合によっては(作品よりも)その技術に目がいってしまう。ケーブルを隠すか出すか、どう処理するか。バサッと無造作に置くか、結束バンドで止めるか、プロジェクターを買った時についていたマジックテープで留めておくか。壁に穴を開ける交渉をして、ケーブルが全く見えない状態にするか。A を実行してBという意味に取られるとは限らない。ディスプレイを買った時の保護シートをつけたままにするかどうか、ディスプレイについたメーカーロゴを隠すかどうか・・・

 こういった懊悩は、作品を設置する時に表出してくるものである。このような経過を、観者に感じさせる作品をわたしは、会場に搬入(インストール)するという作品形態、「インスタレーションだ」と思っている。

1.

 Surfin’のステイトメントにはメディアとポストメディウムという言葉が出ている。ステイトメントで書かれた「ポストメディウム」とは、レフ・マノヴィッチ的なデジタルによるメディアの融解(ポストメディア)、ないし「固有の領域に縛られない制作態度」と言い換えることができそうだ。もちろん、「ポストメディウム」といえばロザリンド・クラウスによる言説が思い浮かぶ。技術や(電話やスライドプロジェクターやフォトノベルのようなオールド)メディアにおけるコンベンション(約束事)をあぶり出す所作がグリーンバーグのモダニズムの後に生まれてきた、という視点である。ただ、このクラウスのポストメディムは、グリーンバーグによる物理的支持体の希求であるモダニズム理論をリテラルに突き詰めたマイケル・フリードによる、作品と観者とのあいだに隔たる空間への気づきと、それに伴う疎外感を打ち破るような作品における「アブソープション(没入)」という考えに至った背景を避けて、グリーンバーグの言うモダニズムを発展させた節がある。大雑把にいうと、ポストメディウムを語るときのクラウスは「インスタレーション」と「観者」にまつわる文脈から、自身が取り上げた作品分析を棚上げにする。

 わたしにとって、Surfin’は、まず、様々なメディアのコンベンション(あるあるネタ、相対化に付随する「そうだった」という気づき・共感、約束事)が、過去と未来への振り返りの姿勢が見えてくるものだった(永田康祐のSierraと山形一生のDesktop)。だから、マノヴィッチ的な意味以上にクラウス的な意味での「ポストメディウム」をステイトメントに書くべきだったのではないかとも思った。

 だが、山本悠から大岩雄典へと展示を見直してみると、Surfin’では、クラウスがインスタレーションに対して述べなかったことが、むしろ、述べられているのではないだろうかと思い始めた。そして、それは、むしろ「メディウム」の問題からずらして、「コンテンツ」というものから考えた時に、初めて見えてくるものがあるのではないかと考え始めた。

 わたしにとって、Surfin’は、有り体に言えば、展示というものがメディアではなくコンテンツとなったことを表明している。そして、Surfin’のコンテンツの一つである諸作品はコンテンツとは何かということを探求させてくれる。ここでのコンテンツとは、「情報そのもの、メディウムやコンテナの中身」である。Surfin’で手繰るべきは、展覧会というメディア/メディウムではなく、コンテンツとしての展覧会、コンテンツとしての作品、コンテンツとしてのインターネットではないか。[*01]

2.

 そこで、Surfin’の出展作は、何をメディウムとしているのか、そしてコンテンツとしてみた時にどう変わるのか。これを考えていきたい。まずは、先に述べた山形と永田の作品である。

 山形の作品「Desktop」は、ノート型パソコンが置かれていただろう机が設置されたものだ。わたしの机は同じくらい汚いので、非常にこの机に対してリアリティを抱いた。机の空白部分には、他にもお盆や書籍といった矩形のものの取り去りを考えることができるが、題名から、パソコンの影しかちらつかない。字義通りの意味が「机の上」であったはずの、パソコンを理解しやすくするためのメタファーであり名称であったはずの「デスクトップ」は、すでにパソコンの「デスクトップ」しかわたしに思いおこさせない。その単語の変容にもリアリティを覚える。

 この作品から連想するのは谷口暁彦がディレクションした、歌手のHolly Herndonの「Chorus」(2015)のミュージックビデオだ。3Dスキャンにされた多くの人々のパソコンの周辺、書斎や居間が流れていく。「日々の記録」(谷口、2013)における、いつか来る3Dスキャンにおける技術先進性の失効へのまなざしが、MVにあらゆる人物の机の上に投入されることで、いつか「古いな」となることに前のめりになった映像だ。

 谷口の作品と比較して考えると、山形の作品はパソコンやデスクトップのOS感もない。書籍などもなく、食品のゴミが散乱する。食品も比較的輸入ショップで世界中どこでも買えそうなものになっており、できるだけ「ある特定の時代」との距離が保たれ、「デスクトップ」がPCを連想させる時代、ウェアラブル性以前のいまに対しての射程がメディウムとされようとしている。

 その机の隣には永田康祐の「Sierra」が存在する。SierraとはSurfin’開催時におけるMac OSの最新版だ。永田の「Sierra」は、普通のmacディスプレイにデスクトップが映っている作品だ。タッチパッドでデスクトップは操作できる。ウェブブラウザなどを開いてネットサーフィンをすることも可能だ。しかし、しばらくするとデスクトップがいきなり奥まり、Sierraの初期設定デスクトップになっているシエラネバタ山脈にまつわる映像が流れ始める。その映像は、山脈で起きた悲惨な遭難を語り始める。

 ただ、「突然の画面の奥まり」のギミックに気がいって、映像を見ることをそっちのけでパソコンを操作してしまう。画面が奥まった時にどのように操作できるか、他のアプリケーションソフトは普通に動くか、全画面表示の映像ではないだろうか・・・。少し触ったくらいでは分からない仕組みに思考を巡らす。その間もヘッドフォンから聞こえる自動音声読み上げの女性の声は、空前絶後のサバイバルを語り続ける。わたしはそれに心動かされない。映像のキャプションは日本語だ。ヘッドフォンは一つであり、観者が一人いると、他の観者はヘッドフォンからは何が聞こえるのかと待つ。観者は作品における構成要素を余すことなく取得しないとならないのだ。[*02]ヘッドフォンからは自動音声読み上げの女性によるキャプションの原語であるだろう英語が聞こえる。ここは日本語圏だから、証言者の声よりも、字幕の情報量の方が大きい。ここでは音声よりも字幕が重要である。しかも、「自動音声読み上げの女性」であれば、「息遣い」も斟酌する必要はない構造だろうと判断する。そういった、「構造的判断」が事前に織り込まれた観賞が提示されている。特に「Sierra」はデスクトップをメディウムとしているのだが、デスクトップでは、あらゆるメディアを吸収し、あらゆるソフトウェアを使用できるため、あらゆることが起こる。しかし、「Sierra」における「画面の奥まり」は、わたしにとって、その「あらゆること」に入っていなかった。それにより、ディスプレイではなく、Macにおけるデスクトップというコンベンションないし、OSの閉鎖空間性が立ち現れる。他のOSユーザーにしたら、「こんなスクリーンセーバーあるのかもな」くらいにしか思わない可能性もあるのだから。

 一方、山本悠の「情報くんと物質ちゃん」(2015)はどうなのか。情報くんと物質ちゃんという二人の恋人関係にあるもののやり取りがなされた映像、その二人のショートメッセージでのやり取りが見られるスマホ、「情報くんと物質ちゃん」のイラストや文字が入ったグッズ、映像の台本が設置されている。映像は入り口すぐの壁に投影され、スマホは会場の奥に。グッズのうちコップはキッチンに置かれている。

 「情報くんと物質ちゃん」は2015年開催の展覧会、「マテリアライジング展Ⅲ 情報と物質とそのあいだ」が初出であるが、作品の見え方が、Surfin’展での見え方とは大きく異なっているように思う。

 「マテリアライジング展」では、2010年代のデジタルファブリケーションにおける様々な技術とその再発明が「情報」という切り口で並列され、問われていた。そのため特に、置き去りにされたスマートフォンに表示されるあまりにも短いショートメッセージが、手紙やポケベルやE-mailとも違う身振りを湛えるように見えたのではないだろうか。同時上映されている映像は会話が主体となったもので、その会話という掛け合いにおけるリアリティがスマホのショートメッセージのメディウム性と重なり、「現在のコミュニケーションにおける時代性を捉えた作品構造を持つ」と見なされえただろう。Surfin’でも、これと同じ構造を辿ることができる。

 しかし、言葉の多いSurfin’では、その映像に現れる一言ごとの分析、発話の様子に気持ちが向く。作中の映像では、次のような会話が行われる。

物質「あのね お父さんね この話したっけ? それでね それでね ふつうびっくりするよね 鳥の死体なんか拾ってきたりしたら」

これは、お父さんに話しかけているのではなく、情報くんへ語りかけるときに物質ちゃんが「お父さんについての話、情報くんに話したことあった?あったはず」と思い直し、話を続ける様である。そして、「台本」には会話への自己言及的な註記がつく。

註記「お互いのことを途中で知り合ったのだから 生まれてきてからずっとそばにいた人ではない 何もかも途中から話し始めなければならない」
註記「私たちはさっきまで話し合っていた話題について いとも簡単に忘れてしまうことがある(中略)そんなこと一度も話したことがなかったかのように忘れる そういうことがある」

 前者は個人と他者の不連続性について。後者は個人自体の不連続性についてだ。映像で見られる会話の消化不良感が、どのように会話として不完全であるか台本で指摘してある。[*03]この台本に書かれた註は、あらゆる会話に適応可能だ。更には、「話」を「作品」に入れ替えても、相違ない。そして、この「台本」は普通紙に印刷され壁にぶら下げてあるが、これが床に置かれていても、プロジェクションされていても、製本されていても、PDFを見る形であっても、この純度は損なわれない領域を持つ。

3.

 わたしにとって、コンテンツになるということは、メディアとしての自律性を溶かすということであり、コンテンツとは、メディア自体に意味はないということである。「情報くんと物質ちゃん」はコンテンツである。だから、体操服にはロゴが入れられ、ガラスのコップにはキャラクターとしての情報くんがプリントされることができる。コンテンツはメディアをクロスオーバーし、グッズになるものだ。2017年には「ビンゴ」としてのコンテンツ事業の新展開を見せたわけだ。そこに場やインスタレーションは全く関係ない。どこにどう置かれようが、コンテンツは損なわれない。

 会場のいたるところに貼られたマグネット「100年の恋も冷えピタ」(2015-16)は、山本のウェブサイトで公開されている「PDF漫画」の抜粋と、彼がツイッターで流した写真だ。PDFとはコンテンツのひとつの象徴だ。アドビのイラストレーターで作られたベジェ曲線を含むデータも、パワーポインターで作られたスライドも、漫画や書籍の違法アップロードも、研究論文も、すべてPDFとして世界に放出される。PDFとは、ソフトウェアの自律性を超え、コンテンツとしてデータファイルを転身させる拡張子である。マグネットは展示されるたびに配置が異なる。それは場所に合わせた、と捉えるよりも、「どう配置しても、ある程度、どうとでもなる」というコンテンツ性にわたしは目を向けたいのである。

 山形の「Mackeeper」はウェブセキュリティーサービスMackeeperのキャラクターが描かれており、「X-FORCE」はクラッキング用のウィルスソフトX-FORCEのロゴが波のゆらめきのテクスチャと重ねてサーフボードに描かれている。いずれもウェブサービスのコンテンツであり、そのコンテンツをパッケージングするロゴやキャラクターが前面に押し出されている。「ad」はウェブで利用されている広告用写真素材で構成されており、そのコンテンツ力(商品力)が著しく損なわれた無残な姿に加工されている。「Sierra」には映像と物語という確固たるコンテンツがあった。それを「デスクトップが奥まる」というギミックに気をとられるということが、(ポスト)メディウムという視点から作品を構造的に考えてしまうという(わたしの)病理を引き出す。

4.

 大岩雄典の作品はたくさんある。マルセル・デュシャンの「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(1915-23)におけるイメージの飛躍と、ロバート・ラウシェンバーグの「Solstice」(1968)をミニマルにトムとジェリーのシールで展開した「なんたらかんたらなんたらかんたら、さえも」(以下、さえも)。そして、ジェリーの巣穴に呼応するように猫がひたすら出てくる「五階くらいの高さから落ちても(あの)猫は死なないという──じゃあイエネコは?」(以下、イエネコ)。シュレーディンガーの猫の死因にもなりうる「波」が出力されるキッチンのIHヒーターに貼られた熱のテクスチャと見える「IH」。このようなアナロジーを作品間に持つように、私としてはこの3つが1作品のインスタレーションとしてあっても納得のいくものであったが、作品は3つに分節されてある。わたしは、この分節に対し、シールとコンテンツと配置(インスタレーション)いう観点から留意したいのだ。

 3作品中、「さえも」と「IH」にはシールが用いられている。わたしは、シールというのはPDFと並ぶコンテンツの象徴だと考えている。コンテンツはロゴやキャラクターをシールとしてメディアから抽象化し、別の何かに転写することができる指標という意味でだ。ただし、「さえも」と「IH」はシールであって、シールでない。「さえも」のシールはあの場所でないとならず、「IH」はテクスチャであって、シールではない。ある意味、コンテンツ自体であるが、あのクッキングIHヒーターの場所に貼られなくてはならない。だから、「シールではない」のだ。その一方で、「イエネコ」にシールはないが、「シールにすること」は可能である。Youtubeで流れる「イエネコ」はカラーで、Surfin’で流れる「イエネコ」はブラウン管テレビでシロクロ。それでも、どこでも、「イエネコ」は「イエネコ」というコンテンツを損なわないからだ。「イエネコ」は、小林耕平の「2-9-1」(2009)と比較されるべきだろう。「イエネコ」は次のように締めくくられる。

ジョーは言った。「事故があったんだ」
「私たちが事故とみなすものは、」と、フォン・フォーゲルザング。「—神のなすことのディスプレイなのです。ある意味で、すべての命は事故とも呼べる。だが—」
「神学談義なんかやるものじゃない」ジョーは言った。「この時間に」
—フィリップ・K・ディック『ユービック』より

「イエネコ」は偶然に対して、徹底的にコンテンツである。Surfin’はわたしにコンテンツを、コンテンツというものを、まざまざと見せつける。コンテンツを探求せよと指し示すのだ。

[*01] もちろん、コンテンツとメディウムという関係性は拡張的で、イタチごっこだ。ディスプレイというメディウムの中にはOSがあり、OSの中には無数のアプリケーションやブラウザがあり、インターネットブラウザの中には小説や映画などのコンテンツが無数に存在しているともいえるだろう。さらには、世の中、コンテンツばかりだから、メディアに目を向ける必要があるといったのはマーシャル・マクルーハンだ。マクルーハンは言う。「メディア(medium)の「内容(content)」は、強盗が精神の番犬の気をそらせるために携える血の滴る肉切れのようなものだからだ。メディアの効果が強化および激化するのは、他でもない「内容」として他のメディアが与えられるからだ。映画の「内容」は小説や芝居や歌劇である」(Marshall McLuhan, Understanding Media: The Extensions of Man (Kindle), Gingko Press, 2013, no.307-318(1987年訳出の日本語版ではmediumをメディアと訳している。マーシャル・マクルーハン「メディアはメッセージである」『メディア論 人間の拡張の諸相』みすず書房、訳、栗原裕・河本仲聖、1987、18頁))この「メディア」とは映画であり、「内容」とは、本文でいうなら、その一つ古いメディア「小説そのもの」である。あるメディアがコンテンツになる瞬間を語っているのだ。小説のプロットや魅力的な登場人物というようなコンテンツを指している訳ではない。Surfin’は、コンテンツというものの概念をメディウム化したとも言える。だが、それでは台詞一つについて考えることを留保させる。作品がメディアを暴く構造さえ分かれば、作品の前に立ち続ける必要はないと判断するという観賞姿勢を生むだろう。クラウスとマクルーハンの差異は、技術決定論への態度にあるように思うが、この点への考察は今後の課題。『表象08』は大きな参照点である。いつか脚注を整え、リライトしたい。

[*02] Surfin’は音を含む作品が多い。会場における音声設計をしっかりとした結果、「Sierra」はヘッドフォンなのだと言われればそうかもしれないが、そこまで織り込み済みで、作品構造としてヘッドフォンは組まれているとわたしは考えてよいと思っている。

[*03] これはメディアの話であるが、線状の時間を持つ映像に対して、(テキストというよりも)台本の多次元性が現出する。

きりとりめでる

1989年生まれ。2016年に京都市立芸術大学大学院美術研究科芸術学を修了。
デジタル写真論、日本現代美術を中心に研究を行っている。
展覧会企画としては2017年に「渡邉朋也個展 「信頼と実績」」(artzone/京都)。2016年に「フィットネス. | ftnss.show」(akibatamabi21/東京)、「移転プレ事業 Open Diagram」(元崇仁小学校/京都)。
研究成果としては、「セルフポートレイトの生々しさの行方 森村泰昌《Hermitage 1941-2014》における身体提示とセルフィー拡散の関係」(第66回美学会全国大会若手研究者フォーラム発表報告集)など。
もうすぐ同人誌「パンのパン」を創刊する。