鑑賞の氷点と融点——Surfin’ 展評
福尾匠

 外と内の交差がテーマになっていると言えるこの展覧会だが、展評を書くにあたってはやはり外堀から埋めていくのが順当だろう。

 6月、大岩雄典、永田康祐、山形一生、山本悠という1990年前後生まれの4人のアーティストによって企画された本展には、出展作家でもある彼ら以外の人間はひとりもクレジットされていない。ウェブサイトには会場は日比谷線入谷駅近辺とだけ記されており、サイトから「事前登録」を行った者だけが会場の正確な位置を知ることができる。会場はアパートの一室であり、オートロックのドアの前で部屋番号を入力すると少しの沈黙の後ロックが解除され、エレベーターで5階まで上がる。会場になっている部屋のドアは閉ざされておりそこで展示が行われているということを示すものはなにもなく、インターホンを鳴らすべきか少し迷った後でノブを回すと鍵はかかっておらず、向かいに窓とベランダの見えるごく普通の単身用のワンルーム、が広がっており、私たちは玄関で靴を脱いで部屋に入る。

 事前登録を済ませると、自動送信のメールから展示場所の情報とともにいくつかの「注意事項」が知らせられる。

「展示場所についての情報は一切口外しないでください」

「展覧会会期の以外には絶対に来場しないでください」

「展示空間で配布されるキャプションシートにも個々の作品についての注意事項が記載されていますので、必ず目を通してください」

「展示空間に設置されているものは、展示会場で配布されるキャプションシートにて許可されている場合を除き、お手を触れないでください」

「展示室及び展示作品の写真撮影は可能ですが、不特定多数が閲覧できる媒体にはアップロードしないでください」

「展示室及び周辺は禁煙です」

「展示室や建物の周辺での集合はご遠慮ください」

これらに加えて二度、会場周辺でのトラブルを防ぐための注意を記したメールが私たちに送られてきた。こうした注意事項、禁止事項の増殖は、会場がプライベートな空間であることに加えて、会場に観客を誘導・監視する人員がいないということにも由来しているだろう。玄関の壁にはキャプションシートが吊られており、そこにも詳しく注意事項が記載されている。これらの禁止はふたつのタイプに大別することができる。ひとつは「ここはプライベートな空間なので、これこれの行為はお慎みください」というタイプの禁止、もうひとつは展示された作品へのアクセスの方法を制限するタイプの禁止だ。

 ひとつめのタイプの禁止は、アパートの一室を展示会場にするという、プライベートなものとパブリックなものとの転覆によって引き起こされるものといえるだろう。たとえば会場のドアの外の廊下でたむろしないでくださいという禁止は「ドアの外の廊下」という空間の公共性を浮かび上がらせる。プライベート/パブリックという分割は、空間の属性attributeであるというよりはむしろ隣接する空間の機能によってそのスラッシュの位置が動的に変調moduleするような空間のモードである。

 ふたつめのタイプの禁止は、芸術作品には触れてはならないという歴史的な禁止を引き継ぐものであると同時に、そうした禁止が逆説的に作品というステータスを規定しているというデュシャン的な、あるいはデリダ的な転倒を思い出させる。とはいえ、たとえば部屋の右奥の床に置かれた山本の《情報くんと物質ちゃん2017》は日用品を「展示する」というシンプルな転倒にとどまるものではない。私たちは床に置かれたこの作品の一部(シールとビンゴゲームの紙)を持って帰ることができるが、会場で写真を撮ることは禁止されているので持って帰った作品を会場の外に出た後で撮影しSNSにアップするという複雑な運動が誘発される。そしてビンゴゲームの用紙の脇に置かれたiPhoneには、ときおり「おきた」「いま京都駅」「駅にみすどがある!」といったショートメッセージが届く。他人のiPhoneにメッセージの通知が表示されるのを目撃する私たちの眼差しは、ここでは窃視的であることがあらかじめ不可能にされている。なぜなら、私たちがiPhoneを覗き見ることによってそのメッセージが物質ちゃんから情報くんに宛てられたものであることを知ると同時に、そのiPhoneが架空のキャラである情報くんのものであることをも私たちは知ることになり、この瞬間、そのiPhoneという対象自体が虚構の世界へと引きずり込まれるからだ。山本のこのふた通りの通信インフラの転用は、作品の「ゆるふわ」としか形容できないような飄然とした佇まいとは裏腹に、現代の作品—鑑賞—SNSの硬直した関係を痛打するものであるだろう。

 鑑賞した作品の写真を撮影する、あるいは作品と一緒に写真に写ること、そしてそれらをSNSにアップロードすることは「鑑賞」という経験を霧散させてしまうものとしても、新たな鑑賞者を惹きつけるものとしても機能しうるだろう。いずれにせよ展覧会を組織するにあたってSNSに対してどのような態度を取るかということが意識化される必要はあるだろうし、山本の作品だけでなくSurfin’ 展全体としてもまさにそのような状況への批判的介入を行うものであるだろう。というのも先に述べたふたつのタイプの禁止はつまるところ、鑑賞経験の定位とモードを物の配置だけでなく情報の配置によって統御するものであるという点で共通しているからだ。

 多くの作品が床に置かれているということからも鑑賞経験のモードを操作することが試みられているということがわかる。玄関のわきにある《情報くんと物質ちゃん》は壁の高さ30センチくらいのところに映写されており、閲覧可能な台本も同じくらいの高さに吊られているので座らざるを得ない。永田の《Sierra》は鑑賞者が床に置かれたトラックパッドを使ってPCを操作する作品であり、私たちは床にお尻をつけて座りヘッドホンを着け、ファイルのアイコンをクリックして動画を再生する。アパートの一室の床に座って映像を観たりPCを操作したりするという、極めて日常的な動作が鑑賞という行為に結びつけられているのだ。

 とはいえ、日常的な動作、だらしない身体を展覧会という空間にいかに導入・配置するかという試みは、たとえば映像作品の上映空間にビーズクッションが置かれているという近年の美術館ではよく見かける光景にもすでにみることができる。しかしこれだけであれば、長い映像を疲れずに観るための配慮という以上の意味を持ち得ない。つまり、これは鑑賞という行為の公共性の縮減ではあり得ても鑑賞でないものが鑑賞に反転するという逆方向の運動は起こり得ないのだ。他方でSurfin’ 展が達成していると思われるのはまさにこの逆方向の反転であり、以下にそれを具体的に検討する。

 この展覧会は、最も外殻の層では「アパートの一室に行く」という行為を鑑賞に結びつけるものであるが、それだけでなく、展覧会の内部、作品の内部にもパブリックとプライベートのあいだに微細なスラッシュを穿つものでもある。持って帰ることのできる山本の作品や、同じく彼の、部屋の壁やドアに磁石で貼り付けられた小さな作品群(《100年の恋も冷えピタ》)。これらの弱い線で描かれたキャラクターのドローイングや日常の風景を切り取った写真は、個人宅の壁に並べて貼られることによってかろうじて「作品」として見られるギリギリのラインに定位しているようにみえる。IHヒーターの円い加熱部分に同じ形のホログラム紙を貼った大岩の《IH》も同様に、キッチンという日常的な空間を見る私たちの眼を「かろうじて」のレベルで、他人の部屋を見回す好奇の眼差しから引き剥がして「鑑賞」に誘い込む。

 山形の《Desktop》はお菓子の袋や空のペットボトルが散乱した机の上に、かつてPCがそこにあったということがなにも置かれていない部分の形によって示されているという作品だ。大量の情報が出入りするデスクトップの画面のかたわらに集積する生活の痕跡であるゴミを「鑑賞」するという経験は、情報空間と物理空間におけるストック(所有)とフロー(流通)を重ね合わせたものを、好奇の眼差しで鑑賞するという複雑な位相をまたぐものである。デスクトップに並ぶダウンロードしたアプリケーションのアイコンの相同物であるような、お店で買ってきたお菓子のゴミを、他人の家のなかで鑑賞すること。

 永田の《Sierra》も「デスクトップ」を扱う作品であるがその手つきは山形と大きく異なっている。Macのデスクトップを操作し他人のPCのなかを覗く私たちを、見慣れた背景に映った険峻な山々が自身の来歴を語り出すことで邪魔をするこの作品は、デスクトップ(という語)を情報空間/物理空間によって二重化するのではなく、画面としてのデスクトップのなかに存在する地と図の関係を撹乱する。つまり、「机」自体が作業台(=地)としてではなく作業の対象(=図)としての存在を主張し始めることによって、私たちは操作者としての地位から弾き出され鑑賞者に反転する。谷口暁彦の《jump from》(2007)は、「スーパーマリオブラザーズ」をプレイする私たちが、マリオをジャンプさせるたびに同じ場面をプレイする谷口がこちらを見返している映像に切り替わるために、プレイヤーとしての地位から鑑賞者が弾き出される作品であり、《Sierra》と類似した構造を備えているといえるが、これを起点に後者の固有性を考えてみる。コンピューターゲームというものがどのような操作をしようとあらかじめプログラムされた動作をなぞるものでしかないことを《jump from》は感覚させるのに対して、《Sierra》はデスクトップあるいはグラフィック・ユーザー・インターフェイスというものの原理的な「底の無さ」を、地という次元の消去によって表現する。その底の無さを埋めにやってくるのは、普段は背景として不動であるシエラネバダ山脈(もうひとつのMac OSの名であるヨセミテ国立公園もこの山脈にある)の概略であり、同時に、ポップアップで表示されるグーグルストリートビューの映像に並走する女性の語りによるこの山脈をめぐる悲惨な西部開拓の物語である。私たちがこのPCの検索エンジンに入力する言葉は強い限定を被るだろう。たとえばそれは「シエラネバダ山脈 食人」かもしれない。作業台が語る物語によって、作業の内容が導出されるのだ。

 展示空間の定位を操作することによるプライベート/パブリックの撹乱、作品(のイメージ)の流通を導くことによる展示の内部と外部のあいだの緊張関係の構築、プライベートなものの虚構への反転、プライベートなものへの好奇の眼差しとパブリックなものの鑑賞との作品内部での分節、情報空間(とその外の関係)における夾雑物を鑑賞すること、ここまで私たちはSurfin’ 展についてこのような視座をひとつひとつ確認してきた。しかしこうした二項の反転や交差を可能にしているのは何なのだろうか。二項を分断するスラッシュの性質はどのようなものなのだろうか。大岩の《五階くらいの高さから落ちても(あの)猫は死なないという——じゃあイエネコは?》(以下《猫は死なない》)はこの問いに対する答えを与えてくれている。

 その答えは猫だ。あるいは猫はスラッシュの機能をミニマルなレベルで体現するものだ。部屋の右奥に置かれた箱を積み重ねたかたちの猫用の遊具のなかに設置された小さなブラウン管のモニターから、猫の映像に重ね合わせられた猫についての女性の英語の語りが聞こえる。私たちはまた床に座ってその猫(の映像)を眺める。20分弱のその映像では猫について様々なテーマで論じた文章が読み上げられる。テーマは九つある。「高さheight」「死death」「見ることseeing」「箱box」「文法grammar」「脚立stepladder」「存在existence」「ねずみmouse」「事故accident」。音声は英語だが、日本語と英語の字幕が付されている。それぞれのテーマの冒頭に「この猫は個人の領地private domainにいます」という言葉とともにSNSに投稿されたものらしい個人宅の猫の動く映像が、そして「この猫は公共の領地public domainにいます」という言葉とともに文字通りパブリックドメインから取られたらしい猫の静止画像が提示される。そしてその写真のまま「みなさんこんにちは。今日私が話したいのは〜〜についてです」とテーマが提示され、エッセイ風の語り口ではあるが思弁的な内容の語りが数分間続いた後、「すべての猫は親愛なる存在です(All cats have amiability)。ありがとう」という言葉とともにひとつのテーマが終わる。

 急いで補足しておくと、この展覧会には山本の《情報くんと物質ちゃん》、永田の《Sierra》そして大岩の本作と、音声による語りが付された映像を用いた作品が3つある。これだけ小規模の展示でこの数は多いように思うし、それぞれの尺も決して短くはないが、それでもこの饒舌さが威圧感を持たないのは、これらの作品がすべて座って観るようにできていること、《Sierra》に関してはヘッドホンを用いることで音の干渉を防ぐとともに別の聴取経験のモードを導入していること、それぞれの作品が細かい単位の組み合わせによって成り立っていることなどが要因として挙げられるだろう。

 さて、猫はノラネコであったり、イエネコであったりする。インターネットには無数の猫のイメージがあり、それらは個人のものであったりパブリックドメインであったりする。私たちは家の庭に迷い込んだノラネコに餌をやったりする。あるいは彼らは、高いところから落ちても、見えないくらいの速さで体をくるっと反転させてしっかり足から着地することができる。あるいはイエネコは、どこかにふらっと出て行ってしまったかと思えば次の瞬間あなたの背後にいたりする。あるいはシュレーディンガーの猫は端的にいたりいなかったりする。猫は「AであったりBであったりする」という反転あるいは重ね合わせの原器なのだ。猫がいるから私たちはパブリックとプライベート、現実とインターネット、存在と非在という、異なる形式どうしの関係とその反転について思いを巡らせることができる。だから「すべての猫は親愛なる存在」なのだ。

 より踏み込んで考えれば、この「猫」という現実に存在する対象を、存在と非在をまたぐ原器として極めて誇張的に規定することは、《猫は死なない》というこの作品が展覧会のなかのひとつの作品であるにもかかわらず展示全体のコンセプトを成立させるような誇張的なステータスを持っていることとアナロジカルである。作品のなかで「この猫」という指示代名詞付きの猫から始まる語りが、定冠詞が付せられるような猫一般あるいは「すべての猫」の性質を代表するものであるように。

 ベランダに通じる窓は『トムとジェリー』のシールによって猫的にデタラメな空間を表現した《なんたらかんたらなんたらかんたら、さえも》(以下《なんたらかんたら》)という大岩の作品の一部になっている。ガラスであることだけがデュシャン的であるのでなく、「四次元」という私たちの経験の条件であるような分節の原理に彼が憑かれていたことをも思い出させる。キャプションシートで許可されてあるとおりその窓を開けるとそこには脚立がある。高松次郎が《compound》シリーズのうちの一作でひとつの脚の下にだけレンガブロックを置くことで脚立を傾かせ「登る」というアフォードを消去し作品化したのとは裏腹に、この《なんたらかんたら》の一部を構成する脚立には4つの脚すべての下にレンガブロックが置かれており、私たちはそれに「登ったり降りたり」することができる。ベランダに出た窓から部屋に戻る。玄関に戻り、靴を履くときに目に入るドアに貼られた磁石を私たちはまだ「鑑賞」することはできるだろうか。そうするにはもう、この空間は親愛なるamiableものになりすぎているだろうか。

 あるいは、結ばれと解かれを様々に往復した私たちの鑑賞は、その氷点であり融点であるような地点を見出しているかもしれない。鑑賞は厳密に言えば行為ですらなく、「見る」という行為の能動性が零度に達したときに現れる純粋な「見え」の状態であるだろう。インタラクション、参加、関与engageを称揚する私たちの時代の芸術は、「鑑賞」という次元を「モダニズム」というレッテルのみによって無みすることができるかのように振舞ってはいないだろうか。この展覧会は、私たちの能動性が対象から脱−関与disengageするミニマルな折り返しとしての鑑賞の氷点/融点へと私たちを誘い込む。はじめから鑑賞されるべきものとして額縁のなかに収まるのでも、関与されるべきものとして私たちの能動性に依存するのでもなく、私たちの関与が鑑賞へと滑り込み、オブジェやイメージに対する別様の関与可能性をつかのま反射するこの地点にあるミニマルな鑑賞こそが、私たちがここまで見てきたようなプライベート/パブリック、内部/外部、物質/情報、現実/インターネットなどの二項の往還や重ね合わせを可能にしていたものであるだろう。

福尾匠

1992年生まれ
専門は芸術哲学、映像論