カラオケ(合羽橋編)
大岩雄典・永田康祐・山形一生・山本悠
——8月某日、合羽橋のコーヒーショップにて収録。
永田 一応、前回のまとめを軽くしてきたんだけど(ノートを取り出す)
大岩 フリクションインキだと熱でうっかり消えちゃいますよね
永田 ぼくよく消しちゃうんだよ、熱々のマグカップ置いちゃったりして。
大岩 冷やすと戻りませんか。
永田 冷凍庫に入れると戻るけど、消した時のやつまで戻っちゃうの。
山形 あーそうかぁ。
山本 全部帰ってきちゃう。
永田 前回のカラオケで話題の中心にあったのは、「ディスプレイ派」の問題系をうけての話だったり、インターネットリアリティ研究会の議論をどうアップデートできるか、みたいな話だったと思うんだけど。
大岩 そこで話がブツっと切れている。見出し「キャスティング」からだんだん、ぼくの家具の話になって、そのまま部屋とか家の話にスライドして、突然終わる。
永田 散漫になりつつではあったけど、途中までの話は最終的にわりとまとまってはいたんじゃないかな。「ディスプレイ派」については、ディスプレイのまわり、例えばGUIにおけるイメージとシンボルの関係や、もっと古典的には支持体対表象関係の問題とか、そういう複合的な関係における問題系を、ディスプレイという単一のメディウムへと還元して考えてしまったという反省がある。で、それは例えばインターネットリアリティ研究会の「ぽさ」の話にも、インターフェース=関係論的な問題が、個物の性質の議論へと収束してしまっているのではないか、という点で同根かもしれない。これは少し単純化し過ぎかもしれないけど、そういう傾向は認められる。でもいっぽうで、そうしたディスプレイとかデスクトップの問題って、〈インターネットリアリティ〉っていうように、リアリティの問題じゃないかということで、東浩紀とかアレクサンダー・ギャロウェイのゲーム周辺のリアリズムについての著作を例に出しつつ、関係論的なリアリティの形式から考えられないか、とまあ結論は出ないにしても方向性はわかる。
ゴルギアス いや、本当に見事な理解だよ、ソクラテス。
永田 それで、ゲーム周辺のリアリズムの議論で重要なのは、それがフィクション=作品内部の構造だけではなくて、プレイヤーの周囲=作品外部の環境を包括した広い構造を扱っているという点なわけで、それがゆえに前回のカラオケでは後半で家や部屋の話になっていった。乱暴に言えば、リアリティやリアリズムの問題を単一のメディウムにおいて考えるのではなくて、〈場〉の問題として考える。ディスプレイやデスクトップが経験される場としての〈家〉や〈部屋〉のリアリティについて考えるというものだったように思える。それで、これはまとめというよりも提案なんだけど、前回はディスプレイなどのメディアの話をしつつ場所=サイトの話へ移行したところで終わっているので、今回はその話を踏まえたうえで、家とか部屋における場所の問題=サイトスペシフィシティについて考えてみるのがいいんじゃないかなと。ステートメントでもサイトスペシフィックなものについて触れていたじゃない。だから、ギャラリーとしてであれブラウザを通じてであれ、作品が鑑賞される場所としての〈家〉や〈部屋〉と、さらにいえばそこで鑑賞する主体について考えるのは、まあ筋としてもいいのかな。ステートメントで書いちゃったし。
山形 じゃあはじめに、前回のなぞなぞ[※01]の答えを教えて。
山本 正解は… 「サファイヤ」でした。
大岩 えっ。
山形 なんでサファイアなの。
山本 サファイア…サファ…。
大岩 あっ。
山形 サーファー。
大岩 サーファーが、イヤだから「サファイア」なんだ。
山形 なるほどね。
大岩 よくできてる。
永田 いや、大岩くんと山形くんわかってたじゃん。フィクションだ。今のリアクションはぼくがさぁ…答えがわからなかったのぼくだけだから…。
三人 (笑顔)
山本 そんな永田くんに、なぞなぞです。かっぱ橋の中にいる鳥ってなーんだ。
大岩 ペリカン。
山形 ペンギン。
山本 ペンギンて…。カッパに似てるからでしょ。
山形 くちばしとかね
永田 漢字で書くと合羽橋ってこうでしょ…。平仮名で書くと…………(長考)
山本 正解は…30分後。
大岩 またラーメンズの文脈だ。
全員 カラオケ前半と同時に、鹿さんと福尾匠さんによるレビューも公開されたよね。この後半の公開と同時に、きりとりめでるさんのレビューも公開されるよね。みなさん、ありがとうございます。
大岩 編集で足された文章だ。
永田 繰り返しになってしまうけど鑑賞とか展示みたいな複合的な問題をディスプレイ=メディウムの固有性=スペシフィシティの問題にしてしまうと、フォーマリズム的には2つの方向性しか用意されていない。ひとつはジャッド[※02]的な極で、支持体のリテラルな形体、ディスプレイでいうなら重さとか、形状の話になるのかな。機械的な特性も含めてもいいかもしれない。それで、もういっぽうには、ニューマン[※03]的な極があって、これはディスプレイの自発光性とか、RGB色空間の透明感のある発色とかに例えられるのかな。ちょっと類比して考えると無理があるけど。そういう意味ではディスプレイ派の極には邱さんみたいなもの[※04]について考えてもいいのかもしれないけど、彼は発言のレベルではそうかもしれないけど作品のレベルで考えると必ずしもそんなに簡単には説明できない。なんにせよ、ミニマリスムや、カラーフィールドペインティングの繰り返しになってしまうのはきびしいから、そうではなくて、もう少しポストメディウム的な形で考えましょう、と。でもそう言ってしまうと70年代のやり直しをする感じになっちゃうね。まああくまでもメディウムスペシフィシティとサイトスペシフィシティをつなげて考える補助線として。
大岩 メディウムスペシフィシティという語自体が転倒的で、そのスペシフィシティが検討されるにあたって、さきにある〈メディウム〉が前提されているからこそ、メディウムスペシフィシティとまず言うことができる。ポストメディウム論が「コンヴェンション」を重視するのも、そうした転倒性を再解釈したようなものだとは思います。グリーンバーグ[※05]がモダニズムのふるまいから絵画のメディウムを平面性だと言う[※06]ような素振りで、ディスプレイを素材に用いた作品のメディウムが、ある歴史性を介在すらしないまま、無批判にディスプレイに還元されかねない。グリーンバーグ流の仕方がそうして歪んで作用していて、その状態でメディアアートに突っ込むとさらに悪手であって。サイトスペシフィシティにも同根の問題がまた違う形になって作用しているはず。
永田 実はサイトスペシフィシティって誰が言い出したのか調べたんだけど、よくわからなくて。
山本 知りたい。
永田 僕が知る限り一番古くてかつその後の流れへの接続が認められるものだと、ロバート・モリス[※07]がホワイトキューブの空間的特徴に言及しているテキスト[※08]なんだよね。天井の照明とか、高さとか大きさとか、要するに、シアターに対して、設えとして作品を置くっていうスタイルで言い始めたのが、サイトスペシフィシティの一番最初かもしれない。なんだけれど、そのあとってランドアートとかになってくるから、サイトのスペシフィシティじゃなくて、たとえば《歩行による線》[※09]とか《ノン-サイト》[※10]みたいな形に、クラウスの文脈でいうと〈マークされた場〉とか〈場所−構築〉[※11]という話になっていく。「作品を設置することで場を読み替え、特殊な場を生成すること」[※12]。つまりサイトがスペシフィックなのではなくて、サイトを特殊化するという手つきでサイトスペシフィシティの理論てのは大きく広がったんだけど、いつの間にか、「場所の条件を所与の条件として、それに沿うように作品を生成させること」[※13]って話に、切り替わっている。
大岩 特殊な場を生成する方向に向かうはずが、所与の特殊性を大文字として二の足を踏んでいる。でも、場所の特殊性って多かれ少なかれ宣言に帰する問題じゃないかな。スペシフィシティがこのようにあるのかどのようにもないのか、と言ってしまうのは、いずれにせよある程度を宣言で切り分けたり特権化するという点では似たり拠ったりで、むしろ二極に偏りがちなのが問題で。そのうえ、大文字の歴史性ありきのものにサイトスペシフィックという語が収斂しはじめると、なおさら態度がその両極のいずれかから選ぶようになる。そうした理念レベルでの単純化に抗して、どこまでがどのように特殊でありうるのかいう程度を具体的に見ていくほうが多様な態度を確保できるというか……鹿さんの展評で触れられている内容も、そうしたものですよね。
大岩 それで思い出したんですけど、『クロニクル、クロニクル!』の展評[※14]で藤野幸彦さんが、SMAPの『世界に一つだけの花』をモチーフに、単一性singularityと特別性speciality、特殊性particularityの話をしていたんですよね[※15]。特別性というのはある種speciesに特別であるということで、いっぽう特殊性というのは、その種のある部分partとして個別であること。藤野さんの論ではそれが、singularityのもうひとつの意味である「特異性」にあわせて語られていたんですが、とりあえずそうした語法に合わせると、ワンルームという空間素材は、特別性はあるけれど、それぞれのワンルームがそのそれぞれであるという限りにおいて特殊性をもつという点で、「例外なく特別なのであり、その意味では同じだ」[※16]ということになる。ワンルームがその家主の生活を反映するということでもあるんだろうけれど。
山本 交換可能なんだけど、別の部屋。
大岩 ワンルームという部屋の種類であることから、ホワイトキューブや画廊のような漂白された空間よりは特別性を前提できるいっぽうで、それはどこにでもあるワンルーム以上のものでしかなく、そこで起きる特殊性は、どのワンルームにもインストールされうるものであって、ワンルームは土地にはなりがたい。たとえ話をすれば、ある社会人が、学生時代に恋人と同棲してきたワンルームを、数年来で訪ねてきたとする。そこで物語性を読み込めるのは、そのアパートだのマンションだのの周辺の情景、その建物に特殊な性質までで、きれいに片付けられたがらんどうのワンルームに入ると、それほど読み込めないんじゃないかな。まるまる一階まちがえていても間取りが同じだったら気づかないですよ。ワンルームはどこでもない部屋なのだから。ワンルームに何も置かれてなかったら特殊性はほとんど読み込めない。『Surfin’』の部屋には作品だのが置いてあるから、特殊性はあったんだけど、その特殊性は、それが特殊であるということにしか存していない。だから、あの会場自体をニュートラルに見たとき、ひとつの展示室として屹立するほど特殊性があったかというと——
永田 ない。すごい特殊な場所ってわけではないもの。
大岩 ワンルームという、日本中に無人格的に遍在している空間の記憶が、間取りとか、風景とか、そういったものから混じってきてしまう。そのときに、大文字ではないスペシフィシティ、その場での特殊性がどうやって付加されていくかの手つきを考えないといけない。もちろん宣言的な効果も相対的に含めて。たしかにあらゆる空間において、その固有の歴史=物語histoireは召喚されうるんだけど、展示にスペシフィシティを内在させるためには、それも一度宣言・作話されてそれもまたインストールされたものにすぎないというか。その操作があるべきである以上、土地性と展示との関係もまたあくまで有契的でしかないんじゃないかな。
永田 いまサイトスペシフィックな作品っていうと「このマンションは何年に作られて、それは何らかの記念碑的な事件があった年で……」みたいな話だったりとか、もしくは、「この土地は特定の文脈の中で作られた住宅地で…」みたいな、土地の歴史性みたいな話から、いまここで展示する意義は斯々然々である、とつなげていくスタイルが多いじゃない。
大岩 地方芸術祭に提出されやすい作品の一部とか、一昨年の怒りの日[※17]とかもそうして歴史を中心的基盤として読み込むタイプだと思う。そういった〈土地の物語〉の読み込みは、日本という単位でも確立されてきている感じも。
山形 今まさに行われているリボーン[※18]とかもね。
大岩 それに対して、今回の『Surfin’』は、あの会場がどういうマンションであるか、という歴史的事実は、とくに展示に内在して関係するものではなかった。入谷という土地性も関わらない。ここで、いやそれでも関係するんだ〜というのは神経症的だともいえます。[※19]いっぽうで、例えば5階っていうことは作品と関わっているし、浴槽っていうのも関わっている。エレベーターは、境界的かな。
永田 特殊性っていう意味での、スペシャルなものはあまり気にしていないけれど、特徴っていう意味での——
大岩 キャラクター?
永田 ——みたいなものは作品に影響を与えている。
大岩 まったく同じビルでも、4階だったらぼくの作品は、「四階くらいの〜」に名前を変えたほうがいいと思う。5階の展示室で「五階くらいの」という限定は、ある種の指標詞的な効果を裏返して含みこんでいるわけですよね。「この階くらいの高さから〜」という意味が読み込まれる。だから4階なら「四階くらいの」、6階なら「六階くらいの」と書き換えるべき。でもいっぽうで、「猫が死ぬかどうか」というフィクションにたいして、4階なのか、5階なのか、あるいは65階なのかというのはフィクションとして程度の問題がでてくる。こうしたことも折衝ですけれど。
山本 一階だったら、あの作品を作らなかっただろうし。
永田 そもそも周辺状況を勘案して、カーテンを閉めちゃっただろうし。
大岩 《65階くらいの高さから落ちたら、さすがに死ぬだろう。じゃあイエネコは?》になってしまう…。
山本 5階のワンルームのドアを開けた場合には、っていうくらいの特徴はあった。
大岩 だから、ほかのビルの5階でも、あの作品の「五階」という徴表の効果は全然通じる。
山本 見えるのがスカイツリーじゃなくて、京都タワーでもいい。
永田 スカイツリー見えなくたっていいしね。
永田 そこで留保が必要だなと思ったのは、カラオケ前半で「DJもしもし」の話をしていたときに、あの展示はギャラリー空間にもう一回インストールしてもできないけれど、『Surfin’』はできるみたいな話をしていた[※20]じゃない。あれはそうなのかな。
大岩 僕はギャラリー空間への無頓着な移設はできないんじゃないかと思う。でもそのいっぽうで、あの建物のあるあの部屋でなければ成立しないという限定性をもっていたわけではなく、ある程度同様の特徴を含み込める部屋ならばインストール可能だし、あるいは部屋それぞれがそのポテンシャルとして導入できる特徴のセリーにたいして、折衝することができる。えーっと、英文法に関係代名詞の制限用法と非制限用法[※21]ってあるじゃないですか。
永田 …ない。
大岩 ”He has the daughter who is tall.”という表現では、彼は背の高い娘を持っている、という意味になる。でも、”He has the daughter, who is tall.”とカンマを挟むと、彼は娘を持っていて、その子は背が高い、と、一度娘の存在が位置づけられてから、特徴が付記される。だから、制限用法では娘はその背が高いという特徴によってこそ特定されるのだけれど、カンマを挟む非制限用法では、娘はまず彼の娘であると特定されてから、その特徴を付け加えられる。「背が高い」という物語性にその娘の存在のしかたが紐付けられているのではなくて、娘がまずあるオブジェクトとして提示されてから、その相対的な特徴として、「背が高い」がキャラクターづけられる。
永田 そんな名前がついてるんだ。
大岩 高校英語の範囲です。
永田 ウッ。
大岩 そういったニュアンスで今回の部屋は、制限用法の、”It is the room which…”じゃなくて、非制限用法の、”It is the room, which...”なんですよ。そのなかにいくつもの特徴を見いだせるのだけれど、そうした特徴——生活的間取りだとか、展示会場だとか、情報くんのフィクションが見られるとか、そうした特徴を読み込み続けられるのだけれど、そうした物語を差し引いても、オブジェクトにとどまる「部屋The room」。ソフトにたいするハード、器としてのオブジェクト。
永田 ミニマリスムにおけるスペシフィシティの話に近づいてきている感じがする。モリスの「非個人的もしくは公共的な在り方」って、作品単体であるのではなくて展示室の広さとか高さとか、まさに展示室の特徴と作品、鑑賞者の相互的な関係において生まれるものじゃない。それはホワイトキューブのアイデンティティに関わる——制限用法的な特徴ではなくて、あくまでも付随的な特徴で、だから同じタイトルで異なるインスタレーションビューが生まれるわけよね。あくまでも演目に対する舞台装置的な在り方。
大岩 ここでフリード激怒。[※22]
永田 そうそう、グリーンバーグ流のモダニスト的立場からすると、かなり堕落的に感じられるステートよね。作品がつねに展示室との相互依存的な関係において作られるという話をしていて。だけど、『Surfin’』においてもそうなのかな。またちょっと違うような気がするけれど。
大岩 『Surfin’』での、作品と場との関係……繰り返しになりますが、入谷やあの建物にどういう歴史があるからどういう作品を作った、ということではないですよね。そういうのじゃなくて、たとえば今回の僕の作品に関していえば、まずあくまで5階というキャラクターを読み込めるものとして、ワンルームという、特別だが特殊ではない空間があった。まあ、ワンルームはそういう意味で器であって、単独性が瓦解しやすい[※23]んですけども。『Surfin’』のワンルームの、特権的歴史性もなく単独性が骨抜きにされやすい、典型的な=タイプ的なtypical空間は、いま鑑賞者自身が見ているという経験に依ってでのみ、冠詞のtheがつけられて「当の部屋」になる。そうした、鑑賞においたゼロ度の単独性しかないわけです。でもだから作品はそこで自律しているかというとそうではなく、《情報くん》は脱衣所からフィクションを読み込んで、キッチンや窓際にもそれを演劇的に広げる。でもワンルームが情報くんその人の部屋という舞台に変貌するのではなく、《五階くらいの〜》の猫にも《Desktop》の机にも、別の演劇性がある。さらに浴室のサーフボードや、床置のパソコン、IHに見える錯覚などは、非フィクション的なしかたで、空間と呼応する〈演劇性〉をもたらすともいえる。その場その場でバラバラの呼応があって、作品鑑賞を変えるごとにつながったり、切れたり、再接続したり……。有限な依存が入れ替わり現れるというか。ここでようやく、さっき頓挫していた、「作品設置で場を読み替える」という話が戻ってくる。
永田 フム〜。
大岩 山本さん、そろそろヒントを。
山本 ぼくが眠りそうになってるから…ありがとう。今日さ、傘持ってきたんだよ。ぼくが傘持ってるところ見た?
山形 見た。
山本 傘持ってたよね。
山形 持ってた。
山本 どっかに置いてきちゃってさ。雨降りそうじゃない。雨降ったらどうしよう…が、ヒントです。
永田 えっと、さっきまでどんな話してたっけ。
大岩 サイトスペシフィシティのスペシフィシティ。
永田 さっき、モリスみたいな話になっちゃうのかなと言い淀んだのはさ。作品ていうのは、「こう」でしかないわけじゃない。……悠くん、寝不足?
山本 (眠そう)。おいてある、ものでしかない。なんかぶつりてきに、ていちゃくしていて、うごかない。
永田 けれどもいっぽうで、そうした対象が、仮に何でもないものであっても、ホワイトキューブで鑑賞者と関係を取り結ぶことで〈特種な客体〉になるわけよね。だからゲシュタルトの強度が必要で、スケールが重要だったわけだけど。そこでは展示空間や作品は、すごく大きなコンポジションのいち要素よね。けど、『Surfin’』は、そうでもなかったような気がする。個々の作品が環境の影響をうけつつも分離可能だった。たまに限りなく強度の低い《IH》のような作品とか《100年の恋も冷えピタ》のような作品もあったりして。でも、少なくとも、それだけでも取り出して見ることができる作品だったんじゃないかな。売ってたし。まあでも、それは大岩くんが指摘している特別性と特殊性の別なのかな。特別性——これはたぶんメディウムの固有性っていうときの固有性とほぼ同じニュアンスだと思うんだけど——は場所に固有な特徴だから、そこに紐付いた作品は移設不可能だけど、特殊性に基礎づけられた——例えば超高層階でも低層階でもない5階という特徴を利用している大岩くんの作品は、同様な特徴を持つ別の場所へも移設できる、というような。
山形 レビューのなかでも、個々の作品それぞれに、プライベートスペースがあるみたいなことを書いていなかったっけ。
永田 鹿さんは、作品それぞれの間にも見えない壁があって、関係しない関係を保っているかもしれないということを書いていて[※24]。それはそうなんだと思う。実際に展示の搬入までお互いに詳細な内容を知らずにやっていたわけで、すごくリテラルに言って作品の一個一個に別な名前がついているし。
山形 パッケージされている。
永田 モバイルに購入して移設可能なわけでしょう。そこには作品の二重の様態がある。つまり、作品は個々の作品としてある程度屹立していると同時に、展示室にべったり癒着してもいて、なんとなくのもっこりとした起伏にしかなっていない。ある時は作品は単体で見られていて、ある時はぺたっとと背景に埋没していく、というように様態が変調する。
大岩 傍観者の「見られ」を内在させた展示作品は、それによって原理的に忘れられないんだけれど、家具の場合は、忘れられたり、目立ってきたりの振幅が激しい。
山本 あの、アニメのキャラクターがさ、サザエさんがイエデンいまだに使っているけれどさ、電話に出ている時さ。受話器はセル画じゃん。でも受話器のコードがつながっている先のさ、ダイヤルとかがついてる電話機はさ、背景に描かれてる。その電話みたいな。キャラクターたちと一緒に前面化している部分もあれば、そうでない部分もある。
大岩 アクティブウィンドウだ。
永田 ウィンドウの前後関係ってちょっと変で、2番目に表示されているウィンドウというのは、2番目なんだけど、そこには連続的なヒエラルキーがあるわけではなくて、アクティブかそうでないかというところにしか実効的な違いはない。それがその今の話でいうところの…電話の…本体?受話器じゃない方…
山本 あれなんて言うんだ。
大岩 …ジュ・ジュワキ?
山本 ジュジュワ。
永田 ——ジュ・ジュワキ[※25]のあり方と、2番目のウィンドウのあり方が近いのかもしれない。もしくは、《五階くらいの高さから落ちても(あの)猫は死なないという、——じゃあイエネコは?》を見ている時の、《なんたらかんたらなんたらかんたら、さえも》。あれは、キャプションシート上、別の作品って書いているところが、最終的には、別作品であることのよすがになっているけれども。
大岩 署名ですね。
大岩 《情報くんと物質ちゃん2017》を、《情報くんと物質ちゃん》に結びつけずに単体で見るのはさすがに難しいところがある。
永田 あれは、別々なんだよね?
山本 あれなんで《情報くんと物質ちゃん》と《情報くんと物質ちゃん2017》ってわけてあるんだろうね。なぜだろう。
山形 過去作品であることについて何か考えがある?
山本 でもキャプションシートで持って帰って良いことを伝えたり…そういう運用上の結果だったのかもしれないけど。
永田 作品がどういうパッケージなのかって難しいからね。
山本 〽︎「気持ちだよ」[※26]
永田 (笑顔)
山本 気持ちかな。
永田 (笑顔)
山本 この、2017を作ったぼくの気持ちと、2015を作った気持ちは違うから。ちがう名前にしよう。みたいな
大岩 ただ、それが作品境界にかんするだらしなさを実装していると言ってしまうといかにもアイロニカルかもしれない。もちろんだらしなさを実装しているからこそガラスクリーナーとかを置いて、そのまま無視もできる[※27]のだけれど。
永田 ガラスクリーナーの話、本当に誰もしなかったね。ガラスクリーナーを置こうって時の判断、思い出してもすごい雑で、シンク掃除か何かで使ってそのまましまい忘れていたのが色感がよいなどの理由でそのままにすることになった。
山形 そ。これいいじゃん、って。
山本 きみどり色だったし。
永田 気に入りだけで置かれてたね。
山形 気持ちかな。
永田 『Surfin’』の展示場所って、まあ展示場所としてはおかしな場所じゃない。企画者側だから想像でしかいえないけど、入ったらまず、「い、家だ…」みたいなリアクションになると思うの。ただ、おもしろい仕掛けが施されたワンルームとして見るにはあまりにも作品がそっけなくというか、展示室がワンルームであることとは関係なくインストールされているから、ひとまずそのことは措いておいて、作品を鑑賞することになる。でも、ワンルームだっていうことは常に意識のはしには入ってしまうよね。ある程度作品を鑑賞しおえたあと、やはり部屋に意識が向く。キッチンとかの備え付け家具や建具には触ってはいけないことにはなっているけど、ひょっとしたら展示内容に関係しているかも…と思って触りたくなってしまう気持ちもわかる。でも基本的にホワイトキューブではそういうことはないじゃない。展示作品の境界確定が最後のところで決定づけられていることが多い。少なくとも、通常の美術館制度に則るうえでは、そういうことになっている。でも、ひとたびその防波堤がなくなってしまうと、どこまでも鑑賞の対象が外側に広がっていく。これはカラオケ前半でも話した内容だけど。
大岩 展示や作品の境界が画定しにくく、だらしなく広がっていく。福尾さんの展評は、《五階くらいの高さから〜》に収斂するように、そうしたパブリックやプライベート、内と外などの反転や交差をもたらす効果を『Surfin’』の各作品に見いだしています[※28]よね。それは各作品および展示の形式に内在する構造を相似的に見る包括的な観点であるとともに、たとえば評の前半ではスラッシュが動的に変調するさまを指摘する[※29]ように、具体的な「鑑賞経験の定位とモード」[※30]の操作にも注目している。そこではたしか《情報くんと物質ちゃん2017》のステッカーについてだったけれど、そういう宣言的な操作も含めて、スラッシュの画定にだらしなさがつきまとうから変調が起きるんですよね。福尾さんのいう「能動性のゼロ度」において現象的・実践的に起きるものとして、この「だらしなさ」の様態も考えられると思う。
永田 プライベート、パブリック、プライベート、パブリックと。
大岩 そうした二つの面の境界部=インターフェースは、カラオケ前半で永田さんが注目していた二重性、二層的なものにも関係している[※31]。『Surfin’』にスペシフィックな問題としてあるその二層性を掘っていくとき、現象的なアプローチを尊重するほうが、あくまで「スペシフィシティ」を程度の問題にとどめたまま検討できるんじゃないかな。
永田 サイトスペシフィシティって言葉を使った時に それが含意してるものは2種類あって、どちらにベットしますかっていう話なのかな。まあ第三項が出てきてもいいんだけど。個人的にも「場の特性を所与の条件としてそれに沿うように作品を生成する」のは、アプローチとしては有効だけど、そればかりだと若干だるいよね、という気分。そこには「だらしなさ」がない。
山形 ステートメントがそんな感じでしょ。
大岩 場の大文字の歴史性の乗るのではなく、現象的に文脈をその都度読み込みうるし破棄もしうるハードとしての部屋の特徴において、スペシフィシティを作っていく。
山形 実際そうやっているよね。IHにしろ、山本悠も服を脱衣所に置いちゃったし、ぼくのサーフボードも。
永田 あれはどうだったんだろう。脱衣所に服があることとか、風呂にサーフボードがあることとか。
大岩 脱衣所の服と風呂のサーフボード、それぞれの置かれ方の性質は違いますよね。脱衣所に服が置いてあるということは、そうした主体——服の持ち主のストーリーを喚びこむけれど、風呂にサーフボードがあるというのは、そうやってサーフボードを浴室で洗浄する主体を喚びこむというより、むしろただ換喩的な置かれ方。
山形 水回りだから。
大岩 シンクにコップは、水回りの換喩的な配置でもあれば、、ストーリーの隠喩的な召喚でもある。架空でもイストワール[※32]を場に据えてしまうから、ある程度、歴史性を読み込むスペシフィシティではある。でも浴槽にサーフボードを入れるという歴史性は読み込みづらい。共感、感情移入の問題でもある。
永田 サーファーだとどうかわからないけどね。
山形 洗うのかもしれないね。
大岩 (笑)。そのうえ波のライトで点けて、換喩に換喩をまたくっつけているだけで、ストーリーなんてほとんどないんですよ。
山形 ない。たぶん、マテリアルに引っ張られているんだと思う。
大岩 そう言うと僕の《五階くらいの高さから〜》も、猫を飼っている人がストーリーとして出てくる。
山形 そういう意味では永田くんの作品は微妙かもしれないね。
大岩 パソコン使う人。
山形 だって、床でデスクトップパソコンやんないじゃんね。
山本 いや、ぼく床だよ。ぼくのライフスタイルって。
永田 部屋に家具がぜんぜんないよね。
山本 最近机作ったんだよ。スタイロフォームで出来た机があるんだけど。
山形 スタイロフォーム!?
山本 作業するとどんどんへこんでいく机。
山形 その上で鉛筆使えないじゃん。
永田 デリダのマジックメモ[※33]みたい。
山本 まあ、その机が出来るまでは、ぼくより背の高いものは一切なくって。ぼく体育座りをして、床にトラックパッドとキーボードを置いて、かろうじて、スケボーの上にiMacのディスプレイをのっけって、そんでやってる。
大岩 机が強すぎて後半が入ってこなかった。
山本 ところで、サーフボードが風呂にあるのは、ストーリーじゃないっていう話と、ポケモンスタンプラリー[※34]は、一致すると思うんだよね。例えば、近くの上野駅は…上野はゴールだからポケモンいないのか。
山形 日暮里ニャースじゃん。
山本 日暮里ニャースっていうのは、納得感。風呂にサーフボードでいいのかなっていう。
大岩 千葉セレビィなんかしっくりくる。
山本 取手はミュウツー。ちなみに、ミュウも23区内にいるけど。
永田 ミュウが23区内にいるの?
山本 渋谷。
大岩 渋谷ミュウはなんかしっくりくる。
山本 でも渋谷にミュウなんていないよ、本当はいない。風呂にサーフボードなんてない。
永田 取手のミュウツーしっくりきたよ。
山形 発電所にサンダーいるのいいよね。チャンピオンロードにファイヤーいるよね。なんで?
山本 今度はゲームの内容の話だね。本編[※35]の話。
山形 サンダーは発電所で生まれてそう[※36]だからわかるけど、じゃあファイヤーはなんでチャンピオンロードなんだろう。
山本 意味わかんない。
大岩 ファイヤーはなんか適当なところにいるんですよ。チャンピオンだから、なんか、燃え上がってるだろみたいな。そういうので。
山形 それやべえ。
大岩 この組み合わせまあいいだろうスコアが積み重なって、いいだろうのボーダーラインを超え、しっくりが生まれる。
山形 いいだろスコア、いいだろうスレッショルド。
永田 でもさ、なんかちゃぶ台返しみたいなことを言ってしまうけど、でもポケモンとの出会いなんて、基本的にはまったく非意味的なものじゃない?
全員 (笑顔)
永田 サンダーが発電所で生まれたという背景があったとして、僕は愛知県安城市ってところで生まれたけど、愛知県安城市に行っても、僕いないからね。サンダーだって空飛ぶわけだし、主人公が捕まえたら主人公と一緒にいろんなところに行くんだから。
山本 本当だね。
大岩 作品が買われる文脈。
永田 雑なことを言ってしまった。
大岩 いずれにせよストーリーの導入は、どこまでをどのように見ればいいって腑分けが提示されるというか、ごっこ遊び的に輪郭づける効果はある。ある程度段階的にはわかるんです。隠喩的にフィクションが入るか入らないか判断すればいい。でもだらっと換喩的になっていると、切ろうとしても切れなくなっちゃうから。程度としては弱くなりながらも、外がだんだん見えていき、となりの作品でようやくぷちっと切れるくらいまで広がってしまう。あまつさえ今回の僕の《五階くらいの〜》のように、室内ないし部屋そのもののオブジェクトになかば言及するようなものがあると、さらにだらっとつながってしまうかも。
永田 ストーリーが導入されると関係性が明快になるじゃない。この場所はこういう場所だ、と言明されるわけだから。サンダーは毎日色んな所を飛び回っているからほんとうはどこでサンダーと出会ってもおかしくないんだけど、発電所でサンダーに出会うことによってその出会いが意味的に回収されやすくなる[※37]。フィクションが隠喩的に意味を規定しはじめると、多重な意味は基本的には失われていって、ストーリーに従属していく。でも、風呂にサーフボードがある、みたいな状態っていうのは、比喩的に理解せざるをえないんだけど、しかしどういう文脈に従属して見ればいいか分からないから、鑑賞において時間的な運動がおこる。換喩的な横ずれっていったらいいのかな。水回りだからサーフボードっていうしっくり感もあるし、でも、ふつう家の風呂場にはサーフボード無いし。
大岩 しかも、X-FORCE。
永田 まあそういう、運動性において作品が見られるっていうのは、あえて善し悪しを問うならば、ストーリーに即さない…いま、フィットネス. って言いそうになっちゃった。
大岩 要は、意味的ではなくフィットするっていうこと。
永田 『フィットネス.』 の展覧会ステートメント[※38]では、そういう意味の換喩的な近接性、接合性について述べているように思う。
大岩 それをただ、身体的に、とか言っちゃうと、すこし幅の狭い気もするのだけれど。
山本 ぽさの話にとどめておくと、ちょっと楽しいよね。でも、ぽさの話は楽しいから、このへんで、もったいぶって。にやにやしておくか、っていうのは、批判すべき態度なんだよね。
大岩 インターネットリアリティ研究会で言っていた〈ぽさ〉[※39]って、JPEGが硬い、といった〈ぽさ〉を宣言することで記号化していた効果があったんだけれど、いっぽうで、サーフボードで浴室で波の光で、といった、相対的に立ち上がるしっくりの〈ぽさ〉は、記号化したところで流用できないじゃないですか。「そうそうそう」と相槌は打たれるけれど、共通言語にはなりきれない、エフェメラルな〈ぽさ〉。宣言することで共有される、JPEG硬いねという〈ぽさ〉にたいして、千葉がニャースというぽさは、それこそ特殊性がべったりくっついていて、流用不可能じゃないですか。でも、宣言共有される〈ぽさ〉はどんどん使われるということだから、〈ぽさ〉が氾濫して、〈ぽさ〉で作品を作るケースが溢れてくる。
山形 ヴェイパーウェイヴとかシーパンクなどのイメージが今日に至るまでこんなに流通できたのも、そういった〈ぽさ〉があまりに明快だからよね。レトロマシンのイメージと、青から赤へのグラディエントの効いた色を乗せたりすれば、すぐにそれっぽくなる。
大岩 リアリズムとしてのその方向は、素朴すぎて危険なんです。でも取手-ミュウツーの〈ぽさ〉は、取手やミュウツーという個々のオブジェクトに限定される。
山本 取手とミュウツーがペアになった時のほかは、一切感じないからね。取手とオムライスが組み合わさっている時に、ミュウツーのほうが取手っぽいねっていうことは、成り立たないね。
三人 ?
大岩 なぞなぞのヒント、ふたつめ。
山本 じゃあ山形くんから
山形 品種改良によって、カラフルになりましたね。
山本 そういうヒント!?
大岩 そういえば合羽橋の合羽って、雨具をいうならは正しくは「雨合羽」ですよね。
山本 そうだね。
大岩 でも、それが略されて、合羽になってそのまま雨具で通用してる。
山形 雨具じゃない合羽って、コート?
永田 コートは外套じゃないかなあ。羽織?
山形 ケープ[※40]?
山本 ?
大岩 ソーダ水の話に似てますね。
永田 ソーダ水?
大岩 ソーダってもともと化学物質の名前じゃないですか。ナトリウムの。
永田 炭酸ナトリウム。
大岩 そう。炭酸水ってもともとレモン水とか、酸性の溶液に重曹を溶かして作っていたんですよね。重曹、つまり炭酸ナトリウムの溶液だからソーダ水で、それが略されてソーダになった。。化合物の名前なのに、それが溶かされた飲料を指すようになったんですよ。しかもソーダ飲料ってだいたい甘いから、甘くない炭酸水を指してわざわざソーダ水っていうようになったみたいな、こんがらがってるけど。
永田 シネクドキみたいなものなのかな。実際には包含関係が微妙なんだけど。
山本 楽しい話だ。
大岩 話を戻しましょうか。
山本 (残念そうな顔)
永田 ええっと、そうだな。さっきのポケモンスタンプラリーとヴェイパーウェイヴの話って、どっちも〈ぽさ〉の話だったわけだけど、前者は大岩くんの言葉を借りればエフェメラルで、後者はそうではない。対象を記号化して流通可能にする効果があるということよね。この理解はちょっと素朴かつ独断的すぎるような気もするんだけど、あえていえば、前者には判断が働いているけど、後者は判断なしにできてしまう。特定の様式=フォームさえふまえてしまえば、〈ぽさ〉による流通が可能になってしまう。逆に言えば、それ以外のみかたは排除されてしまうということでもある。前回してきた話は、ディスプレイのリアリティが(ディスプレイを見たり操作したりしている)主体の問題や(そのコミュニケーション志向性による)ユーザー文化とか、ディスプレイ周辺の環境を含んだ状況においてうまれるものだったのにもかかわらず、それをディスプレイという単一のメディウムに置き換えてしまったから、話が矮小化されたりずれてしまったり、本来扱われるべきポイントが扱えなくなってしまうということだったと思う。その構造と、いわゆるサイトスペシフィシティの問題も似たような構造なんじゃないかという気がしてきた。
大岩 相似的じゃないんだけど、通底するメンタリティが似ている気がする。特定の文脈を、所与の形で優先化しすぎるそぶりというか。
永田 むしろ場の特殊性というのは——
大岩 そのたび現象的に確認されるものを、スペシフィック=特殊だといいたい。でもイストワールを無頓着に基底に据えてしまうと、その係数に則って考えざるをえないみたいで、操作が婉曲に吸い込まれてしまう。もちろんミニマリズムをめぐる言説としては切実な意味はあると思うんだけど。
永田 うん、そうだね。
大岩 現象的に、その場その場で立ち現れる単独性、それは、経験に基礎づくゼロ度の単独性の上に、キャラクターが随時読み込まれたり、〈キャッシュが破棄〉[※41]されることで動的に立ち上がりつづけるものなのだけど。今のところでは、なぜそうした現象的な方のスペシフィシティ、そこ感みたいなものが優先されるべきかと価値づけて主張できるかはちょっとわからないけれど、ひとつのメディウムの特別性に還元するよりは実直じゃないかなー。サイトスペシフィシティも、歴史上普通にあるから、それはいいんだけど、今更それを言っていても、サイトスペシフィックな場所か、ノンスペシフィックなサイトか、そういう腑分けにしかならなそうで、それなら現象的に立ち上がるスペシフィシティを見ていった方が有効そうだなっていう感じ。
永田 しかし実直に、そうしないと作品が場所に従属してしまうじゃないか、と指摘すると、それはあまりにもモダニスティックよね。そういうことでもないよ、と。
大岩 うん。そのときどきで現象的に従属すること自体はいいんだけど、概念としてサイトと一体化されるとその文脈ばかり使われちゃう。でも、鹿さんの言うような「そんな誰のものでもない誰かの部屋」[※42]においては、特殊性を一回一回その場で拾うことになるから実直で気持ち良いんですよ。鹿さんのテキストはそうした経験の展開を、現象的に報告する形でドキュメンテーションしていて、こうして記述された作品経験を、その節々の言い回しや文型を辿って、こう言っていいならば、臨床的に……分析するのがいいのかもしれません。、そうした分析を参加作家自身がするのはなかなかリスキーとはいえど、でも言わないよりは。
永田 でも作品見ていくと、やんや言うのが楽しくなっちゃうんだよ。
大岩 《IH》の話してほしい。
山形 《IH》むずいねえ。
大岩 《IH》は作品としてデータ量少ないから扱いやすいですよ。
永田 福尾さんは《IH》と《100年の恋も冷えピタ》を並べて論じていた[※43]じゃない。それは単純に他人の家のキッチンやクローゼットを見る好奇のまなざしから——かろうじてのレベルで、という表現をしてたかな——鑑賞へ誘い込むという話で。ただもちろんだけど、そこで働いている〈誘い込み〉の力学は微妙に違くて、それはさっきの《X-FORCE》と《情報くんと物質ちゃん》におけるフィクションの働き方の違いと似ている気がする。
山本 (スヤスヤ)
一同 あっ。
山本 ビンゴを切ってたんだよ……。タランティーノを観ながら……。タランティーノがジョージ・クルーニーの弟を演じている映画[※44]……。おい、あいつ…いま合図してたんだよぉ……ほら…肩を触ったろお前ぇ…保安官に合図してただろぉ…ってバーンって撃っちゃう弟の。……5分くらい、かもめの国に行ってきます。(寝る)
永田 寝ちゃった。
永田 場の特殊性を所与の条件として、それに沿うように作品を生成させること——「サイトスペシフィシック」っていうときは主にこちらを指すことにしようか——に対してかなり否定的な立場をとってしまったけれど、その考え方自体は当時新鮮だったはずだし、なにより特定の場所で展示する以上そこから何かしらのヒントやインスピレーションを得ない理由はなくて、そういったものを制度性によって消去するというシステムもまた息苦しくはあるよね。
大岩 でもいまは美術館さえも、特殊性が所与として宣言されれば——この言い方も転倒してますけど——どこもかしこもサイトスペシフィックになりえることの上に成り立たされているというか。そういった形でサイトスペシフィシティのラディカルさを持ち上げることは時宜的に適当には見えなくて、〈独立した作品のための無場所〉でも〈歴史にかしづくサイトスペシフィシティ〉でもない第三項、読み替える実践を文脈として再定立したほうがいい。
永田 そうだね。ただ、サイトスペシフィシティの議論以前に戻ろうという話ではないことはここまでの話の流れからもわかるんだけど、しかし具体的にミニマリスムのアプローチやランドアート的なアプローチと比べてどこに違いがあるのかは明らかにしておきたい。
大岩 そこでさっきの、なんとなく浴槽にサーフボードを置き、波の照明をかければ、なにか特有のしっくりな経験になるという現象を拾い上げたくなる。でもその先にはIKEAのモデルルームみたいな空間性にたどり着くような気がする[※45]。舞台化されたある部屋の間取りに多くのアイテムが全部まとめて置かれていると、ひとつひとつの柄やフォルムに内在したぽさが凝縮されて質として浮かんできて、ある魅力にしているというか。モデルルームの本棚とか、フィクションが立ち上がるようなリアリティはないけど、なんか、ああこういうふうのね、となる。ニュートラルなホワイトキューブの理念でも、土地の物語histoire的なスペシフィシティでもなく、空間のフォルムとの演劇的関係にもちこむミニマリズムでもなく、しっくりフィットする〈ぽさ〉で非理念的に空間をまとめあげる手つき。今回の展示でも、間取りや設え、生活の断片と同じ質をもちつつも、しかし生活空間にはなりきれないシミュラークルが立ち上げって、展示されていた。IKEAだったら浴槽にサーフボード入れて値札貼って置いておけますよ。IKEAの部屋は、あれそのものをコピペしたところで実際には住めたものではない、機能しないのだけど、似ているアイテムを一箇所にまとめているから質が出て、ある質をもつ生活のシミュラークル[※46]として鑑賞に耐えているし、それぞれのアイテムを観るにも、そのための文脈がまさにそこで構成されている。機能はしない。
永田 (IKEAのショールームは)あるべきものがなかったり、逆に無駄に多かったりするしね。
山形 群生しているから(商品陳列として機能しているのであって、生活のフィクションとしての統一感を出すこととは)違うんだ。
大岩 たとえばモデルルームに照明器具が妙に多く置いてあったところで、生活のようで生活ではない、生活のシミュラークルの文脈から了解される。だから『Surfin’』の設えを徹底していくとIKEAにたどり着いてしまうかもしれない。陳列になる。
永田 商品陳列はさ、しっくりしすぎて場に埋没しちゃまずいわけじゃない。ひとつの部屋として完璧に作り込まれていたら、マネキン買いみたいにするしかなくなる。でもそうじゃなく、(アイテムひとつひとつを屹立させて見ることができる手法として、)道具的に利用可能ではあるよね。インスタレーションじゃないインスタレーションの形式[※47]として。
大岩 質としてまとめられるから、狭いスペースに多くのものを置けるという経済的な話かもしれませんね。これは前半で話した、狭い部屋にも多い作品点数を置くことができたということともつながる[※48]。身体レベルで複数の姿勢に振り分けたというのに加えて、水場には水回りらしい作品を、というように、しっくりフィットする〈ぽさ〉でまとめていたとも言える。たとえば《情報くんと物質ちゃん》のシャツをリビングのほうに移したら、立ち上がるフィクションとしては内容が大きく変わるものではないが、かなり空間は手狭になっていたはず。非物語的な癒着のしかたが実演されていた。それは、生活において部屋の諸々のアイテムが自然と最もコンパクトにものをまとめられていくことにも似てますよね。
永田 脱衣所では、《情報くんと物質ちゃん》の映像とシャツというまとまりとして壁と床に癒着する感じがあって、あんまり(空間の経済が)しんどくならない、というのがあった気はする。
大岩 搬入の途中でも、リビングの中心に何かしら置いてしまうのはむずかしい、と話していたような。だからiPhoneは、寝しなに使ったかのように窓辺に置かれていた。それについても、情報くんが寝しなにiPhoneを見ていたというフィクションを立ち上げるのではなく——布団は置いていないのだし——、身体と空間として、そこがしっくりくる場所だ、ということ。
山形 浴室の《X-FORCE》と脱衣所の《情報くん》と(のせめぎあい)はギリギリだったんじゃないの。あれで浴室の照明が(電球で)点いていたらかなりキツかった。
永田 だから浴室の照明は落とそうという話になって、それから波の照明を置いた。そんなに明るくなかったのもバランスが良かった。
大岩 さらに言えば、《100年の恋も冷えピタ》の磁石はいろんな場所にくっついていたけれど、生活部屋のなかで、磁石がつけられる場所は、磁石がしっくりつけられそうな場所なんですよ。冷蔵庫なり、換気扇なり、既に磁石とのフィットが設計されている。
永田 磁石をつけられる所ってどんな部屋でもだいたい一緒で、みんなそういう場所に磁石つけるから。生活のリアリティが——
大岩 フィクションの節約。それはとても家具的だし……間取りも設えだとすれば、冷蔵庫を部屋の中央に置かないといったことも。
永田 それも作品の、あえて調度と言うけれど、その調度のスタイルが、家具の置き方にすごい近いわけよね。42インチのディスプレイもたとえばあの角のクロゼットが壁だったら、家具としてテレビはあそこに置くだろうし。だからクロゼットは存在感を消されていた。
大岩 《Sierra》のディスプレイが、いかにも映像作品の展示のように、たとえば《Desktop》があった壁に掛けられて正対するようにインストールされていたら、それで空間埋まっちゃいましたよね。搬入のときに意識されていた経済的な調整に、生活空間的な節約が実は参照されていた。
永田 インストールの時点で、福尾さんが指摘するような身体のモジュレーションは起きる。設置するときに判断する「しっくり」が——(ホワイトキューブ的でもなく、フィクション的でもない身体感覚を暗に参照していた)作者がその作品の第一の鑑賞者であるということでもある。
大岩 知人が『Surfin’』の展示空間について、「引っ越し一日目の部屋のよう」とコメントしてくれて。まあ搬入自体が実質一日しかしていなくて(笑)……そのさなかで使われた身体が、引っ越し一日目のような振る舞い方——テレビはとりあえずまあここだろう、壁の絵はここだろう、云々——を再現していたのかも。この再現はミメーシスとは違う意味で。たいして、たとえば白壁への美術展示のインスタレーションというのは、それがどのように、どのくらいの時間をかけてインストールされたかという手触りはおおむね排除される。そうした搬入そのもの、物がそこにある由縁の手触りを、『Surfin’』は積極的に提示したわけでもないが排除したわけでもないですね。——むしろ積極的に提示すると、インストールそのものを凍結した展示になってしまうだろうし。手前味噌だけど、僕の《Pleasure》のマスキングテープ[※49]とかはその傾向も含んでいた。
山形 サーフボード、使い終わったあとだと汚れてるだろうしね。
大岩 いろいろな文脈がだらしなくつながって、しっくりくる、フィットする感じが、物語の立ち上がりと同居することで、相互貫入していた。換喩と隠喩が主導権をとりあう感じ。
永田 ガラスクリーナーがシンクにあったのもね。
大岩 ぽさが強かった。
永田 誰も気づかなかったというか、気にしなかったしね。
大岩 本来の展示より余計なのがひとつ増えているのに……。
山形 作品でもなければキャプションにも記載されてないからね。家具じゃないけども、キッチンシンクにくっついた感じだったものね。
大岩 キッチンシンクのエリアではいろんなことが起きていて、そのガラスクリーナーと、《ad》のFRESHと、《情報くん》のガラスコップとタッパー、《IH》、換気扇には《100年の恋も冷えピタ》の磁石が貼ってあった。それらはサイトに対して各々違う関わり方をしていて、まずガラスクリーナーは、タイルの艶を通して、水場掃除-らしさで置かれているし、《IH》は、フィクションとしての強度を欠落した再現・イリュージョンとして置かれている。でもFRESHのイリュージョンは文学的内容を表しているわけでも、しっくりと生活における利用の文脈に乗っているわけでもなく、水のイメージで、浴槽-サーフボード-波のセリーと似たような置き方をされていた。磁石は、一枚一枚に描かれているイメージは個々バラバラだけれど、磁石を貼れる場所だから貼ってある。これはガラスクリーナーに近いかな。そして《情報くん》のアイテムは、ささやかな物語とともにある。水場だからそこ、ではなく、キッチンで情報くんが使ったかのように、そこ。各々の文脈で場所と関わるものが集約してもまとまりを維持できている。こういう煩雑さは、それ自体サイトとして多重化できないホワイトキューブや、あるいはひとつの物語をインストールされたサイトスペシフィックなサイトには相性が悪くて、ワンルームくらいのゼロ度の特殊性で組みやすい。
山形 だってあの水道トラブルみたいな、たまにポストに入れられるじゃんね、磁石のやつ、あれもなんか、とりあえず磁石だし貼っとくかみたいな感じでさ、ペッ、て貼りたくなるじゃんね。
大岩 ていうか搬入中に実際水道トラブル貼ってた気がする。
山形 そういう感じのね、ストーリーもあるだろうしさ。いろんな文脈を密集しちゃってる。
大岩 情報くんがあの磁石を貼ったんだよ、というようなフィクションを備えているんじゃない。まあそう読むことは可能だけれど、顔のない主体、人間onでしかないものが貼った、と感じることもできる、というふうな差異を含みこんでいて、作品の内側でも文脈がブチブチ切れているのを、永田さんがさっき言ったように、時間的に横ずれしながら次々受け取ることができる。意識的に弁別しながらなのかはおいといても。
永田 リアリティという言葉をマジックワードにしてしまうとまずいけれど、しかし前回話していたリアリティの問題って連続律的にみれば「水道工事店の磁石シートを貼りたくなってしまう」みたいなものも含みつつ、アフォーダンスの知覚可能性まで含めて考えられるような問題なのかもしれない。前回から話してきたメディウムスペシフィシティへの批判ってポストメディウム的な議論でしょう。つまりメディウムっていうのはそもそも社会的な約定も含んだもので、他の基体との関係において生まれるものだから、一個の(物質的)対象に限定して純化するってのはおかしい、という話。なんだけど、ここでいう約定というものは単に社会的な取り決め以上のものとして、それこそ「磁石なんだから貼るでしょ」みたいな素朴なレベルでの誘発性も含めてもいいかもしれない。そもそもメディウムをメディウムとみなす、という判断もすでに限りなく薄い能動性のもとで下される判断なわけだし。
大岩 能動性が薄いから、つねにスラッシュの移動を準備できる。逆に、たとえば物質としてのディスプレイかどうかという点が優先的なスイッチになってしまうのがそこでいう純化主義ですよね。物質的にディスプレイでないものにも、ディスプレイとしての知覚可能性や約定の援用性を、思弁的にでも見出だせるようなゼロ度。
永田 サイトスペシフィシティの問題も似ている。ホワイトキューブというのは外の文脈を完全に排除するじゃない。純化して、ないものとするんだけど、それを穿つ契機としてあったのがミニマリズムなんだと思う。メディウムもミニマルになったことで、ミニマイズされて、ないものとされていたホワイトキューブの特徴があぶり出されて、そこに呼応関係が生まれる。
大岩 文学的な内容が消滅して、空間、観者とのリテラルな関係が生まれる。
永田 それが契機となって、サイトの問題が出てくるわけだよね。場の特殊性を所与の条件をするようなタイプの「サイトスペシフィシティ」は、文脈を消去してしまうホワイトキューブのある種の暴力的な権威性から離れて考えましょうというかたちで、サイトのスペシフィシティを打ち出す。けれども、それが支配的な方法論になってしまうと、今度はその場所であり得たかもしれない文脈や実際にあるけれど無視されている多様な特徴が同様に無かったことにされてしまいかねない。サイトスペシフィシティをめぐる言説はある種モダニズム批判として行なわれていたはずなんだけど、同形の問題に回収されてしまっている側面がある。場所というのはどこであろうと多様な文脈が入りこむ余地があるのだから、たとえば家だったら生活の文脈、水回りのようなローカルなスペシフィケーションみたいなものがあるわけで、それを単一の物語性ではない、単なる場の特殊性=エフェメラルな〈ぽさ〉として受け止めましょうというのは、ディスプレイ(という物質的基体)の周りのだらしない文脈を取り込むことで、家で展示するときの文脈を、「私の家」みたいな話でもないし、「家という社会的なもの」というわけでもない、単に——こういう言い方でいいのかわからないけど——反省性のゼロ度みたいな状態での家性みたいなところに素直に乗っかりましょうという点で共通している。
大岩 もともとサイトスペシフィシティが持っていた批判構造は、あくまで文脈が漂白されたものであるホワイトキューブにたいする対極性だったのだけど、そうした理念的な二極はもうさんざん中和してきたのだから、家だの、ハプニングの歴史を汲めば路上だの、漂白されたサイトと、歴史化されるサイトとのあいだにある空間について、そこで実践的にどう組めるか、という形でサイトスペシフィシティの理論を拡張更新できますよね。自己弁護的だけれど、家というモチーフは妥当だとも思う。
永田 ミニマリズム的なアプローチと似ているのはそりゃそうだろうという話だね。彼らはミニマルになったことによって素朴に、あ〜なんか天井高いな〜みたいな感じになったわけだから(笑)。
大岩 あ〜なんか浴室だな〜という感じになっても、ええねん[※50]。
永田 浴室に置けばええねん。
大岩 《X-FORCE》の搬入のとき、浴室なら大きさ的に置けそうだねって言ってましたよね。
山形 なんでそもそも最初浴室になったのか…
永田 浴室にしようって言ったのは僕だった気がする。はじめ、ベッドルームの方に置くことになっていたんだけど、山形くんから作品写真が送られてきて、これはベッドルームに置くには大きすぎるということで、じゃあ浴室にしようか、となった。《情報くんと物質ちゃん》ははじめ浴室だったのを脱衣所にして、他の作品もずらした。
大岩 僕はベッドルームから残っている場所として窓周りをもらって。場所先で決まったから、5階の窓だとか、ベランダということにたいしてストーリーライクな性質を作品は帯びえた。いっぽうで《X-FORCE》はモノ先だったから、水場ということで配置するようになって——とはいえまあ、ベランダに外出て見るという人もいないのだろうけど。
山形 僕の友達、ベランダの脚立にのぼってた。
大岩 危険があぶない。
山形 「そういう作品だと思って」って言ってた。郷治くん[※51]なんだけど...。
永田 『五階くらいの高さから落ちても(あの)猫は死なないという——じゃあ僕は?』になってしまう…。
一同 笑
大岩 だからこの話だと、《五階くらいの〜》は統合的に多数の異質な内容を構造化しているのだけれど、むしろそれゆえに、構築の基盤——タイトルがそうだし——は、わりとサイトスペシフィシティに乗りぎみ、というか文脈を包摂しがち。《X-FORCE》の置き方が文脈の結節点・糊として事後的に見出された機能をもつのとは違って、それこそホワイトキューブの特徴としてのサイズや間取りのごとく、ベランダとか5階ということを演劇的に強調する機能がある。
永田 フリードが演劇性を批判するのは、モダニズム擁護の文脈があるわけじゃない。作品の自律性をフリードは真に信じていて、演劇なんていう作品が周辺化されるような関係性なんてけしからん、と。けど、演劇的でも楽しいしいいじゃんっていう話もあるし、でも同時に演劇的なありかただけを追求していくと作品なんてなんでもいいよねという話になる。個々のものなんかなんでもよくて、インタラクションが起きればいいじゃんという。作品自体の視覚的な喜びもありつつ演劇的にもも面白いという中間的な状況をどう肯定するかということが、クラウス以降の——
大岩 自律したオブジェクトとして視覚的にその現前性に楽しんでもいいし、演劇的に関係して楽しんでもいいし、という日和見的な態度ですかね。鑑賞のあいだでも非一貫的に文脈をスライドしながら観る。
永田 作品には視覚性もあれば、リテラルな現れというのもあって。両方あって楽しいわけだから、複合的な状況を考えましょう、というのがポストメディウム的な考え方だよね。サイト、場所みたいなものを考えるうえでも、繰り返しになっちゃうけど、イストワールに従属するようなものでも、単純に天井が高い廊下が狭いという形体的なリアクションのみを与えるものでもないスタイルをになっていったほうがいいという話で、たとえば《情報くんと物質ちゃん》とかは、その展示場所にキッチン・水回りがあるからコップを置くという、リテラルなリアクションと並行して、情報くんのストーリーのうえで出てくる水場を重ねている。そこには二重性があり、鑑賞者の身体が揺れ動くわけじゃない。ストーリーに没入して観る身体、鑑賞と、単純に——
大岩 複数の鑑賞主体が重なるための複合的な状況。ここでようやく、これまで批判的に捉えていたサイトスペシフィシティにおいて場所にインストールされている物語=歴史histoireをも、複数的な文脈の相対的なひとつとして組み込んでいける。ただ、『Surfin’』の会場はまさにprivate[※52]というか、非人格化していて場所の歴史性が見いだせないんですよ。そこで、サイトとの関係として場所の歴史性も入れるべきだ、となるのは非常にPC的になって、場所に潜在したあらゆる見かたを担保すべきだ、となってしまう。むしろ、情報くんのフィクションと、猫のフィクション、食人事件のフィクションなどがばらばらと散在していて、場所のなかで総合的に〈釣り合っている〉し、個別の限定された鑑賞では、〈相互貫入する〉という実践的な経済が〈その場所においてこそ〉成り立っているということを、そのサイトの特異性=スペシフィシティとして見出す態度が実直なのではないか。
永田 単純にサイトスペシフィシティというものを考えるうえで、さまざまにスペシフィックな状況があるはずなのに、なぜ単一の文脈に固執するのか、という批判であって、歴史性自体に批判を加えるわけではないってことよね。歴史性にスペシフィックになりすぎると、作品は何だっていいみたいな話、例えばテキストだけあって、それ読むことによって「あ〜ここはこういう場所なんだ〜」となればよい、みたいな話になる。
大岩 インスタントな聖地巡礼[※53]だ。いずれにせよ、イストワール・スペシフィシティというあくまで或るひとつの特異性を、サイトスペシフィシティというカテゴリーと短絡しながら極化するから、ぎくしゃくするんですよ。歴史のスペシフィシティがあるよと単独で言われたら納得だけれども。場所というのは本来複数のスペシフィシティが相対的にかつ共在的に実装されて、時間的に再展開されうる〈場所〉だということ。その共在のトポロジーの独特な形状がその場所のスペシフィシティなのに、ある歴史だけをとりあげて、場所=サイトのスペシフィシティとみなすのは潜在性を活用できていないというか。
永田 サイトスペシフィシックとされるものは歴史的なものに収斂進化してきたきらいがあって、それを再度解きほぐすような作業があってもいいのかもしれないね。
大岩 ただホワイトキューブ批判としてはそうした歴史性を武器にしたアプローチは有効だったという話。ホワイトキューブはサイトの漂白において、無歴史性という不自然なものを実装しているのだし。でも家というのは、はじめホワイトキューブ的ないし〈オフホワイト〉であった場所に、暮らすにつれてだらだらと諸文脈が乗ってくる場所であって、イストワールを全面的に実装した場所=土地という概念には引っ張られないように考えていく必要がある。
永田 前回、デスクトップ的リアリズムみたいなものがあるんじゃないかということを言っていたけれど、ここではワンルームリアリティみたいなものがそこの場所性みたいなものを再生させる機能をもっていたわけじゃない。普段の自分のふるまいと重ね合わせながら見られつづけるから、そこで再生がある種サポートされていたみたいな。
大岩 〈デスクトップ的〉リアリズムという語はあくまで時代的な応答であり、もはやこの話だと、何的リアリズムでもいいっちゃいい。それがただ、〈デスクトップ的〉にせよ、〈キッチン的〉にせよ、〈ワンルーム的〉にせよ、〈友達の家的〉にせよ、〈浴室的〉にせよ……それぞれが、文脈の立体的な引き込み線をスペシフィックにもっているわけで、さらにそこに情報くんや、猫を飼っている人のフィクションというものが引き込まれて重なることで、それらのスペシフィシティの実際の動き——転轍[※54]のふるまいを実演する。そういう意味で、ディスプレイという基体を主人公にして静態化してしまう「ディスプレイ派」という語への批判にもなる。
永田 特定のものばかり見てるんじゃねえよという話。そういうと単純なんだけど、でもそうなんだよね。イストワールにチューニングされてしまうと作品もなにもすべてその歴史的な隠喩に絡め取られてしまうし、かといって比喩的なものを排して、作品と空間の相互作用という話だけでも演劇的演出に終始してしまう。時代的にせよ世代的にせよ、あるリアリティの足場——もちろんそれは(どこまで共有されているかという)程度の問題なのだけど——の上にさまざまな要素が換喩的に連なっている。その連なりをメディウム的にもサイト的にもベーシックに考えてみよう、ということかな。
二年後————
ピーンポーーン
山本 …………はっ。
山形 おはよう悠くん。
山本 寝ちゃってたみたいだ……みんなで話し合う夢を、みていたよ。
永田 お客さんかな? 会期は二年前に終わったっていうのに……
山形 ちょっと出てくるね。
大岩 ズズズ……(お茶を飲んでいる)
作品 This cat is in private domain...
山形 はいは〜い(バタバタ)
ガチャッ
全員 って、、あ〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!
(青空)
『Surfin’』は、2017年の六月にはじまりました。はるか昔のようで、あっという間だったような・・・(笑)はじめはどうなるかハラハラしてばかりでしたが、なんとかここまで完走することができました!『Surfin’』の世界がこれからも続いて、この街のどこかで、永田、大岩、山形、山本が今日も暮らしているような、そんな幕引きが、この展示にはふさわしいと思っていたので、こんな終わり方もアリ、とホッとしています。
ここまで一緒に走ってきてくれた読者のみなさんが、五人目のメンバーです!そして、レビューを寄せてくださったきりとりさん、鹿さん、福尾さん、ありがとうございました。感謝してもしきれません!
それでは、いつかもし、あなたの隣の部屋で、展示が開かれていたら……見逃してくださいネ。もしかしたらそこには、『Surfin’』のみんなが搬入しているかもしれませんから。
2017年9月、さ〜ふぃん一同